手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
戦後の憲法は、ろうあ者の生活に生かされていなかった。
そのためろうあ者は、多くの仲間と集い、憲法学習を重ねたがそれはまさに「人間の復権の道」でもあった。
Tさんの結婚をC子さんの家族と話すことは
平等な権利保障への行動のひとつ
人間としての平等な権利保障が、ろうあ者に一貫して貫かれていたのか、という検討をろうあ者自身が考え、行動を起こしたその切っ掛けのひとつ。
それが、Tさんの結婚をC子さんの家族と親類に「認めて」もらうという行動だった。
TさんのC子さんへの想いは結局実を結ばなかったが、この時期を境に雪の積もった中でも梅の花が咲くようにろうあ者の結婚は、次々と花咲いていくようになっていく。
E君がバイクにはねられて交通事故に遭った
聾学校中学部卒のE君がバイクにはねられて交通事故に遭った。
入院、治療となったが、加害者からの連絡はもちろん補償などの話は全くなかった。
E君のお母さんは困りはてていた。
治療費がとても払えないほどになっていたからである。
困りはてているE君の家をろう学校の先生と一緒に訪れた。
4畳半ばかりの部屋
お母さんとろうあ者二人の三人家族
E君の家は、モルタルづくりの家折り重なるような家々の隙間を人一人が横になって縫うようにすすんでいかないとたどり着けない場所にあった。
密集した家、というよりは雨風を防ぐために建築資材の廃材でつなぎ合わせたような家々が、上へ上へと積まれていたとも言える。
その一階部分にE君の4畳半ばかりの部屋があった。
そこで家族三人が暮らしていた。
子どもたちは二人とも聞こえなかったが、ろう学校に通う費用もままならない状態だったらしい。
出迎えてくれたお母さんは、非常に喜んでともかく
「おおきに」「おおきに」
を繰り返した。E君はまだ入院していた。
福祉事務所は
「事故の補償は事故保険が適用される」
「福祉事務所は関知しない」と。
E君の家庭はとてもとても複雑で、Eさん宅を揶揄する人々は少なくなかった。
E君には父親もいなし、ろうあ者の兄とお母さんの3人が住む四畳半の狭い部屋。
お母さんは、「日雇い労働者」(当時、そう言われていた。)で、仕事もほとんどなかった。
そのため生活保護を受けていたが、福祉事務所は、「事故の補償は事故保険が適用される」「福祉事務所は関知しない」という態度。
お母さんはどうしたらいいのか困り果てていた。