手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
京都の北部の舞鶴市でろうあ協会が「筆談」で課長と「ろうあ協会が市長と会う日」を連絡した。
当日になって仕事を休んだろうあ協会の役員が市役所に行くと課長が
「そんな約束はしていない。市長は今日は会わない。」
とすごい剣幕で怒り出した。
震えながらもろうあ協会の役員が
筆談のやりとりの文を出した
そこで、震えながらもろうあ協会の役員が、課長との筆談のやりとりの文を出した。そこにはハッキリと市長に会う人日時が課長の文字で書かれていた。
急に課長は黙って去った。
これらのことは無数にあった。
だから山城ろうあ協会と市とのやり方は消えない炎のように怒りと共に広がっていった。
「誤魔化しを許さない」
状況が産まれてきた
山城ろうあ協会には機関紙を作成する力を持っていた。
機関紙4号目で、これまで誤魔化されつづけていたことが広く社会の注目と理解を広めるようになったのである。
読み書きが出来ないろうあ者もいるけれど、読み書きの出来るろうあ者もいる。
みんなが手を結び合ったとき、それまで、その場、その場で「誤魔化されてきた」ことに対して、「誤魔化しを許さない」状況が産まれてきたのである。
1968(昭和43)年7月8日午後2時半頃の「また来よったワ」事件と地元新聞の9月28日付の新聞記事をめぐって京都府教育委員会主催のろうあ者成人講座(同年10月13日 田辺高校講堂)の学習会に集まってきた山城地方のろうあ者に知らされた。