手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
外交員の妻と夫が帰ると襖が開かれろうあ者夫婦は、笑顔で何度も頭を下げる。
逆に申し訳なくて、自分の非力を嘆いた…。
心は重く空しさだけが残った
ともかくもとに戻ったことがうれしかったらしく、何度も何度も頭を上げ、手をあわされた。
こんなんで済ませていいんだろうか、と思ったけれど、ろうあ者夫婦にとっては騙されたことへの怒りは持てず、元に戻ったことの「喜び」が勝っていたようだった。
帰りの夜道。
初めて来た時よりも心は重く空しさだけが残った。
ろう者同士で話すため
自然に手話を覚えました、と言うが
これらの事を山のように知っているろうあ者相談員だったKさんは、宇治市手話言語条例が決められた翌年の宇治市市政だより 2018年2月1日号で「特集 心でつなぐ、手でつながる 宇治市手話言語条例を制定しました」の特集号に次のようなコメントを寄せている。
条例により多くの人が手話が出来るようになれば
6歳までは他の人と同じように聞こえていましたが、病気になり聞こえなくなりました。
色々な病院に行ったり、祖母とお寺で拝んだりもしましたが、良くなりませんでした。
しばらく「もう自分はダメなんだ」と思って過ごしていたのですが、民生委員の人に京都市内にろう学校があると教えてもらい、通うことが出来ました。
小さい頃は、耳が聞こえていたので言葉は少しわかっていたのですが、中学生になると言葉が難しくなり、わからなくなりました。
そこで、ろう者同士で話すため自然に手話を覚えました。
手話言語条例により、多くの人が手話を出来るようになれば、ろう者は筆談をしなくても、手話で通じるようになります。
いま、宇治市ろうあ協会の会員は52人程です。
半分以上が70歳以上になっているので、病院に通うことが多くなっています。
病院ではコミュニケーションをとることが多くなっていますのので、病院に手話の通訳を置いてもらいたいですね。
そういう風に便利になればいいなと思います。
と。
宇治市手話言語条例の
「 その後、手話はろう者の間で受け継がれ、発展してきたが、口話法が海外から伝えられると、多くのろう学校で手話が禁止されることとなつた。
そのような状況下であつても、手話はろう者の間で大切に守られてきた。
昭和45年(1970年)に、本市においては手話通訳のできる職員を採用し、ろう者に対する手話による意思疎通の支援に努めるなど、手話に関する取組を進めてきた。」
を心に秘めたコメントであることを知る人は少ない。