手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議佐瀬駿介
1959(昭和34)年6月29日。京都。
いわゆる「第二教室」の事業場などの和解が成立する。
私立京都聾口話学園からはじまり、事業を進めてきた京都府ろうあ協会は、結果的に三事業所を閉鎖、機器の一部を京都府立身体障害者福祉センターへ管理委託、などなど山積する処理に追い詰められてろうあ協会内部でも紛糾する。
国や行政が何もしない中で生き続けるために身を粉にして働き、なけなしのお金を出し合い事業を進めてきたろうあ者や家族、多くの人々の善意の気持ちが簡単に踏みにじられた。
血と涙の歴史から生まれた手話を
尊重しかけがえのない手話表現として
ろうあ者問題や手話や手話通訳が話される時に、出来合いの、誰かが言った事をそのまま信じ込まないで、血と涙の歴史から生まれた手話を尊重し、かけがえのない手話表現として受けとめその背景にある哀しみと苦しみと喜びを充分受けとめて欲しいと思う。
例えば、当時のろうあ者が「第二教室」という手話をする時は、第二・教室(部屋)と表現したがその表情は哀しみに満ちていた。
手話は、技巧や形ではない
手話は、技巧や形ではない。
その手話に表された深い多様で複雑な意味合いがある事を、ひとつ、ふたつ、と知って欲しいと思う。
手話は、はなしことばや漢字と同じように、いや言葉であるからこそ多様で多岐な意味合いを持つのである。
枠組みに押し込まれる事になれきってしまうと、手話の深い多様で複雑な意味合いは、単純化して打ち消されてしまう。
だが、それは、哀しみを幾重にも交差されて創りあげられてきた手話を否定する事だけではなく、哀しみを幾重にも交差しながらもそれでも生き抜いてきたろうあ者の生活を「無視」することにもなる。
風雪にも耐え抜いてきた
ろうあ会館を造りたいというねがい
自分たちの集う場所=ろうあ会館を造りたいというねがいは、どんな風雪にも耐え抜いてきた。
このねがいを一歩前に進める話が舞い込んできた。今ではこの切っ掛けを知る人は極めて少ない。