手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

盲人協会の血と涙と汗の結晶京都ライトハウス移転とろうあ協会のねがい 京都ろうあセンターはなぜつくられたのか⑪

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手話を知らない人も

                       手話を学んでいる人もともに

{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議佐瀬駿介

 

 1967(昭和42)年2月を前後して、京都市の職員と京都府の職員が同じ場所での福祉関係行政者の集まりに出張する車中。

 

 京都市の職員から、京都ライトハウスが旧交通局病院に移転される動きが検討されている事が話された。

 

京都ライトハウスの大拡充が実現しようと

 

 京都ライトハウスは、「京都に盲学生のための図書館を」という視覚障害者のねがいにもと1951年に盲人協会や盲学校が運動して1961年に創立されたまさに盲人協会の血と涙と汗の結晶であった。

 

 当時は、京都盲学校近くの京都市北区紫野花ノ坊につくられていたが、1967(昭和42)2月28日に眼科医で盲人協会ために尽力を尽くしてきた富井清氏が京都市長に当選。

 

 京都ライトハウスの拡充と新規事業を進めたいという切実なねがいが実現される可能性が出てきていた。

 

 しかも、京都盲学校近くの交通局病院が移転していて京都ライトハウスの拡充と新規事業にふさわしく、それまでの京都ライトハウスよりと比べる事も出来ないほどの大施設となり得る場所だった。

 

安易に他の目的に

  転用出来ないという行政側の思惑
 
 京都ライトハウスが旧交通局病院に移転される、だが京都ライトハウスは私有地が寄贈されて出来た場所であり、盲人協会の血と涙と汗の結晶で出来たものであるため安易に他の目的に転用出来ないという行政側の思惑があった。

 

盲人協会からの反発は
必須条件として考えなければならない
 
 京都ライトハウスが旧交通局病院に移転される動きが検討されている事は、内々にろうあ協会に伝えられたが、移転後の盲人協会のライトハウスをろうあ会館として使用させてほしいとねがう事は、盲人協会からの反発は必須条件として考えなければならないのは自明の事だった。