手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議佐瀬駿介
資金の見通しが極めて不充分であっても、旧ライトハウスをろうあ者のセンターとするための京都ろうあセンターの準備が、はじめられた。
このことは無謀であり、冒険とも言える一面があった、とも言えるが、この時代のろうあ協会には高い意気込みだけでなく必死になって困難を打ち砕く力を蓄えていたとも言える。
新しい運動の胎動
なけなしのお金を出し合ってでも自分たちのいのちと生活を守る事業を創りあげて行こうとする気概は、今考えても新しい運動の胎動であったとも言える。
このことで実現してきた事業は耐えず資金で翻弄されてきた。行政は、それに答えるべきであったが、いつも後追いでいくつかの事業がすすむと「後追い」で援助をする。
「援助」をしたからとして、「行政は口出し」するか、その後巧みにいくつかの事業メニューを提出し、それを障害者団体などに「選択」させて事業助成をする事で障害者団体の多くの要求を一部に封じ込めて、行政が行うべき障害者福祉の事業を団体に転化させて、自らの責任追求を免れるという事が行われるようになっていく。
この絡繰りを見抜かないと、これからの障害者福祉は内部矛盾を抱えたまま発展しないのではないかとさえ思える。
解りきっているのに
障害者福祉の事業は利益は見込めない
障害者福祉の事業という時に、事業利益がなければ事業が維持出来ない。障害者事業で利益を得るということは、何を意味しているのだろうか。
自分たちの事は自分たちでしなさいと福祉の本来の責任を国や行政が投げ出しているのではないか。
そもそも障害者福祉の事業は、事業利益は見込めない。だからこそ国や行政が責任を持つべきなのである。
三人のろうあ者職員の
給与の未払いはしばしば
資金の見通しが極めて不充分であっても、京都ろうあセンターの看板を高々と掲げた。そして三人のろうあ者職員が配置されたが、給与の未払いはしばしばであった。
利益を隠して未払いにするブラック企業ではない。資金を寄付に頼らざるを得なかったからである。
寄付が集まらなかったら給与が出ないのは自明のことだったが、それでも給与体系は京都府職員の給与とされていた。ここに着目して考えていただきたいと思う。
1968年の京都ろうあセンター。
給与も出せないままであるにもかかわらず、専任手話通訳者を採用するという話が続けられた。