手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議佐瀬駿介
寄付が集まらなかったら給与が出ないろうあセンターの職員の状況をいつもろうあ者の人々は気遣っていてくれた。
昼飯時や仕事後にしばしばご飯を食べさせてくれたのだ。胃袋が満たされると勇気も湧いてくる。
そんなエピソードは数知れない。
京都ろうあセンタ-は
特定の人の尽力でつくられたのではない
だからこそ京都ろうあセンタ-が特定の人の尽力でつくられたかのように今になって思い込んだり、書いたりしている人がいるが、その人々は助け合い、援助し合いながら多くの人々の輪が広がり、それが力になることを知らない人かもしれない。
また個人に頼る思考を持ち続けることが出来ないのかもしれない。
みんなで、みんなが力を合わせ、心を寄せ合い、それをまとめて目標に進んでいく中での素晴らしいろうあ者の人間像が数多観えたのが京都ろうあセンターの初期の出来事であった。
行政のバランス論と
基本的人権を保障する運動
寄付に依存せざるを得ないろうあセンターの未来は脆いものであることはみんなが承知していた。
だからこそ、必死になって行政に働きかけたり、要求交渉を行っていた。
行政は、肢体不自由者、盲人との行政対応のバランスでろうあ者に対する対策の遅れは認識していたが、それはあくまでもデスクワーク上の考えに過ぎなかった。
陳情・請願から要求へと変わったろうあ協会は、自らの基本的人権を保障する運動へと転化していたため行政の懐柔や一定の助成だけでことを済まそうとする動きには毅然として否定した。
手話通訳者のモラルとか倫理とか
手話通訳者のあり方を
さまざまに解釈する前提に
手話通訳者も幾度も論議を重ねていて、事実に基ずく、実態に基ずくろうあ者の生活を熟知することは前提として手話通訳を行っていた。
また手話通訳の経験や年功序列には関係なく自由に意見を出し合う関係を創り出していた。
手話通訳者のモラルとか、倫理とか、手話通訳者のあり方をさまざまに言う前に以上の前提を踏まえなければならない。
京都市は全国で初めて専任手話通訳者を採用したが、その専任手話通訳者も他の手話通訳者も行政の懐柔の手助けをするようなことは一切しなかった。
この当たり前の事が当たり前でなくなっている今日、1969年頃の京都の手話通訳者の教訓を学びきらなければならないと思う。