手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議佐瀬駿介
第一回全国手話通訳者会議で東京のろう学校の大久保襄氏は、手話や手話通訳、さらにろうあ者問題やろう教育について「消極性から積極性へと転化」した分析がほとんどなされず、ろうあ者側の自然的変化として捉えられている。
それには大きな疑問が残る。
ろうあ者が気楽な孤立世界を形成している
以下第一回全国手話通訳者会議の報告では、
○東京でのろうあ者の立場は、又一種特別なものである。
○身近かな生活でも、ろうあ者だけの孤立した世界をつくっている方が気楽であるという考え{意識}がある。これは、ろうあ者だけの責任ではない。
ひっぱり出してやる健聴者の心やりも大切だ。
と報告されている。
ろうあ者が気楽な孤立世界を形成しているが、それはろうあ者のだけの責任ではなく、ひっぱり出してやる健聴者の心やりだとして、ろうあ者は「責任」で述べ、健聴者は「責任」と述べないで、心やりに文字を置き換えている。
ひっぱり出されるのがろうあ者の責任
ひっぱり出されるのがろうあ者で、ひっぱり出すのが健聴者の心やりということは、結論としてろうあ者が気楽な孤立した世界を形成していることの責任を重ねて述べているにすぎない。
ようするに気楽な孤立世界を形成しているろうあ者の責任であると主張しているのである。
このようなろうあ者の自己責任論があり、自分たちの世界からひっぱり出される干渉を拒絶してろうあ者が気楽な世界を形成してきた、それはろうあ者が自分たち生きる上での必然的結果であったとは是認しようとしない。
ろうあ者が孤立世界を形成している背景とその気楽な気持ちを抱く原因を何ら観ていないのである。
手話が使われ創造されてきた
ことすら理解できない
だからこそろうあ者が気楽な自分たちの世界を形成する中で、相互の会話としての手話が使われ創造されてきたことすら理解できないのである。
また、ろう学校につとめていたが手話通訳の必要性をさほどかんじなかった、のであろう。
生徒たちを健聴者の思惑の元に
引き出すとするろう教育観
ひっだり出してやる、この言葉そのものがろう学校教育やろうあ者への一方的な教育観で貫かれているとしか考えようがない。
聞こえない子どもたちだからこそ、健聴者は何らかの形で子どもたちをー引き出すー形作るという考えには教育が生徒たちの教育要求を踏まえたものとしてではなく、生徒たちを健聴者の思惑の元に引き出すとするろう教育観が観られる。
この点では、口話教育と同一線上の考え「引き出す論」と同じなのである。
ろう学校生徒やろうあ者の教育要求や社会参加要求に対して、それ応えるのではなく、自分たちが描くろう学校の生徒やろうあ者の「幸せ」「生活」などを自分たちの尺度で形成した枠組みの中に押し込めようとする考えは、基本的人権の尊重に結びつかない。
近年さかんに手話や手話通訳を強調する人々の中に、これと同じような傾向が観られる。