手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議佐瀬駿介
京都府民生労働部の向野嘉一氏は続けて次の点を指摘している。
手話通訳者が自分の人権を投げ捨てて
ろうあ者の側だけのためにとは
②通訳者が、はっきりした権利意識をもっていること。
これは先のろうあ者に対する同情との関係で、手話通訳者は自分にも基本的人権があり、それを投げ捨てて、ろうあ者の側だけの為にとするのはある意味で「欺瞞」であるとの考えが基礎にある。
このことを理解しておかないと以下の主張は理解できないであろう。
人間関係に従属関係を
つくらない手話通訳
自己犠牲の上になり立ち、ろうあ者のためだけに手話通訳するというのは人間関係に従属関係をつくり、お互いを縛り合うものでしかないとする考えである。
例えば、手話通訳を1時間以上せざるを得ない場面が当時あった。
でもこれはかなり過酷なもので、手話通訳する側の限界を身体も精神も乱打していることがしばしばであった。
長時間に渡る場合の手話通訳の交代。
少なくとも20分ごとというのが当時の体験から割り出されていた。
だが、現実は手話通訳者が少ない状況の中で、そのことを実施することは困難であった。
だから手話通訳の交代を諦めていいのだろうか。
手話通訳者の疲労・拘束が
犠牲になることを容認していては
ろうあ者の権利を守るべく手話通訳しても、手話通訳者の疲労・拘束が犠牲になることを容認していては、ろうあ者・手話通訳者の相互の権利を守るべきことにはならないとする考えに立っていた。
絶えず双方向の条件を考慮してこそ、人間同士のコミュニケーションが成立するとの考えであった。