手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
4回全国手話通訳者会議1971年の記録には、よく解らない箇所があるがこれは記録側の聞き違いや思い込みが少なくとも入って後世に記録として残っている。
論議は、噛み合っているのに記録では、そうなっていないのは、聞く側の理解にも関係していると思える。
事実を踏まえて
客観的り理解出来ない手話通訳者
最近痛切に感じるのは、話を記録した手話通訳者が5Wで書けないで自分の思いを潜らせて記録する場合が多すぎる。
これでは、手話通訳は出来ない。
手話のマニュアルをいくら知っていても話し手の主張の核を把握してそれを手話に変換する事が出来ないのである。
要点筆記も出来ない手話通訳者が、手話が出来ると自負することが多いがそれは手話通訳していない証でもある。
聴き取れていないで
とんでもない手話通訳をして
聞きとり通訳、というほとが、聴き取れていないのだからとんでもない手話通訳をしている。
過日あるテレビで、高齢のろうあ者の施設入退院をめぐる放映がされていた。
施設を退院させようとする側は、ろうあ者本人が施設を退院して○○に帰りたい、と言っているとスマホでの動画を証拠に主張。
一方、施設側の弁護士は、手話の専門機関に問い合わせたところ、スマホでの動画に映る高齢のろうあ者の手話は、何を言っているのか解らない、とうてい文にも現せないと主張。
なんらろうあ者の
言っている手話を理解していない
だが、テレビで放映された映像を見る限りでは、○○・待って・行く、という手話で、○○に行くので待っていて、と高齢のろうあ者は言っている。
手話表現と年齢を加味しすると、帰る、やめる、ここ、などの手話が出来ると考えられるので、施設を退院させようとする側も弁護士側も、なんら本人の言っている手話を理解していない。
テレビの放映された範囲であるため限定されているため、すべてを知れないが、これだけ手話、手話といわれている時代に主観的理解でろうあ者の言っていることが理解されていないのはじつに不可解であり、手話や手話通訳の根本を再度洗い治す必要があるだろう。
以上を踏まえて、第4回全国手話通訳者会議も解説と評価を書き加えて行きたい。