手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
ろう者の人達の手話は早くてわからない
手話のわからない者は
取り残されたような感じ
サークル分科会 問題提起 一浜松通訳グルーブー
1. 手語議習会の直後は健聰者の会員がくんと増えるのに、次第に出席が悪くなるのはなぜだろうか?
a. ろう者の人たちと友達になりたいと思つて入つたが、手話でしゃべれないので、出てもおもしろくない。
b. もっと手話を教えてもらおうと思つて入つたが、講習会のように教えてくれない。
c. 手話のできる人はどんどん話して楽しそうだが、 手話のわからない者は取り残されたような感じになる。
特にろう者の人達の手話は早くてわからない。
d もっとろう者の問題を知り、勉強したいと思つて入つたが、内容が物足りない。
e. 公民館は時間が限られていて、月2回の例会以外の交流の場がないので、親しさがわ
ない。
f .趣味のサークルとはちがうし、学習サークルともちがうのでむずかしい。
手話も覚えたいと思つていたが
ろう者の会員からは通訳者であるべき
2. 手話講習会、 手話サークル、 手話通訳活動のちがいと関連について、
手話講習会の後、「やまびこ会」が生れた。
健聰者は、 講習会で知り合つたろう者の人達ともっと親しくなりたいし、手話も覚えたいと思つていたが、ろう者の会員からは、サークル会員は通訳者であるべきという要求をされたため、健聴の会員が減つてしまい、一時はつぶれそうになった。
しかし、 残つた会員は次の講習会から新しい会員を迎えて、 サークルの目的をろう者と健聰者の交流と親陸において続けてきた。
サークル会員の中から通訳活動を始める人が出てきているが、ろう者からの要求がその人の意識を変化させた時、その活動が始まる。
だから、この三つは厳密に区別する必要はないかもしれないが、 混同すると無理が出てくるのではないだろうか。
無理しない手話学習の深い意味
浜松通訳グルーブの問題提起は具体的で、手話を学ぶ人々とろうあ者の期待との交差をリアルに提起している。
とくに、サークル会員の中から通訳活動を始める人が出てきているが、ろう者からの要求がその人の意識を変化させた時、その活動が始まる。だから、この三つは厳密に区別する必要はないかもしれないが、 混同すると無理が出てくる、ということは今日でもとても大切なことではないか。
何もかも厳密に区別する、混同する、と無理が出てくる。その無理はひずみを生み、亀裂となる。
無理が出てくるということは、無理しないという方向が内包されている。
何もかも企画化する傾向に対しての警鐘であった。
現在の状況を考えると、無理が出てくる、という警鐘が活かされているだろうか。