手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
岩手県の手話をひとつの例にあげた。しかし、この手話のことをはなしをすると、そんな手話は絶対なかった、と言い切る人があって閉口した。
今は全日本ろうあ連盟の会長をしている人と岩手のろうあ者の人々と志戸平温泉で手話表現のさまざまな特色を話し合っただけに想い出は尽きない。
だだ、この手話が表現されていたということ。他の手話を否定する、つもりはない。
ひとつの手話には、多くの歴史と思いとねがいが籠められているひとつひとつを大切にして行きたいという意味であるし、手話は、数え切れないほど日本中にあったということ。その表現には、歴史的文化的、生活などをすべて包括されている。この事実。これは伝承されなければならないと思う。
盛岡
両手の拳の動きが重なり合った途端に
両手の拳をぱっーと拡げる手話
もう一つ岩手の盛岡で出会ったろうあ者の盛岡の手話を記しておきたい。
両手の拳を横に突き合わせてそこから花(さくら)が咲く=盛岡という手話だった。
両手の拳の動きが重なり合った途端に両手の拳をぱっーと拡げる手話。その拡げるさまは、桜の花とすぐ解った。
だが、盛岡を、なぜそのように表現するのか解らなかった。
手の開き加減で桜を表現する手話
何年もして盛岡に行き、散策していたときに「両手の拳を横に突き合わせてそこから花(さくら)が咲く」が盛岡市にある石割桜を現していたのだということがすぐに解った。
大岩の割れ目から咲く桜。盛岡の名所だった。
ろうあ者の人々が強大な岩を割、桜咲く様子に自分たちの言い知れぬ重圧を跳ね返すエネルギーと美を思い重ねていたかも知れなかったのかも、と思った。
だが、あの石割桜を手話表現することは出来なかった。
両手の拳を突き合わせて手のひらを上方に開くのだが、その開き具合が見る者に「桜」とわかる手の開き加減がとても難しいからだ。
手話は流れて表現されていた
拳を突き合わせる+花 という二つの手話の組合せではなく、ひとつの手話として表現されていたからである。
岩手という手話も盛岡という手話もひとつ(一動作)で瞬時に表現して、伝える。
手話の特徴は、このことを見逃してはいけないのだと思った。
悪い例でしか説明できないが、墨字で書かれた草書体の繋がりのようで、墨の濃淡やかすれにそれぞれの意味を籠めるように、手話は流れて表現されていた。
だからひとつの手話から次の手話に移行するときは途切れる事はなく、すらすらと表現されていた。
だからひとつの手話から次の手話に移行するため手の位置や指の位置が、途切れて表現されることはなかった。
手話を見る側からすれば
「流れる手話」の方が見やすく
長時間話していると目が疲れない
例えば、私学校に行くは、私・学校・行く、ではなく、人差し指を自分にむけてそのまま人差し指を下方に下げながら前方に指し示し学校。
このことを強調するのは、手話を見る側からすれば、途切れ途切れの手話より「流れる手話」の方が見やすく、長時間話していると目が疲れないという意図しないが自然な表現であったのではなかろうか、とも思う。
手話表現の知恵 手話の流れの知恵
この時、人差し指を自分にむける微妙な動きによって、学校に行くことに躊躇していることも手話を見る側に解るのである。
手話表現の知恵、手話の流れの知恵。
これも故大原省三氏が、「手話の知恵―その語源を中心に」と表題をつけたことの意味の中に含まれているのではないかと思うようになっている。