手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
手話通訳者・手話通訳士の人々が
理解出来ない領域に
思春期、青年期の子どもたちから
若く新鮮な感想
中学生や高校生が手話を学ぶための手話テキストを作成したとき、読み書きがほとんど出来ないろうあ者に、読み書きと手話を教え合うろうあ者を多く見てきたからこそ思春期、青年期の子どもたちに問題を提起しておいた。
ある意味答えのない答えであるが、年齢を重ねるにつれて新しい理解が生まれるように創意工夫をしたが、思春期、青年期の子どもたちから多くの感想が寄せられた。一部の○×でしかない教育評価に対する瑞々しい感想だった。
だが、一番不評を投げかけてきたのが手話通訳者であった。そのためこの中学生高校生の手話テキストは「放棄」されている。
手話通訳者は手話通訳士の人々すべてではないが、少なくない手話通訳者は手話通訳士の人々が理解出来ない領域なのだろうか。
ろうあ者 手話も十分知らない
文字は書けない 読めない
未就学の佐藤さんをたずねの項で
「ろうあ哲の佐藤さんの家へ行くんだけど、いっしょに来ませんか?」
サークルの山本さんに誘われて.ある日曜日ぼくは佐藤さんの家を訪ねた。
手話サークルでは.ろうあ新の家を訪ねて,交流を深めているそうだ。佐藤さんは未就学、つまり学校へ一度も度も行ったことがないろうあ者だった。手話も十分知らないし文字は書けない、読めないとのことだった。
佐藤さんのお母さんの話によると、佐藤さんは、生まれてすぐ熱がもとできこえなくなったそうだ。まもなく戦争が始まり.遠くのろう学校へ行くお金もなく.学校へ入れないまま農業を手伝って生活してきたとのこと。家族以外の人との関わりがないま40年間生き続けてきた佐藤さんは、話すこと書くことはもちろん手話さえできない。家族とも会話も.「食べる」「ねる」ぐらいの身ぶりだけとの話。地城のろうあ者や手話サークル員が.佐藤さんを訪ねるようになって5年。佐藤さんは.やっと心を開きその日の出米事を身ぶりで語るようになったという。
ぼくにはさっぱりわからない
ぼくらが行くと佐藤さんは待っていたように手まねきをして家の中へ入れてくれた。
ろうあ者のリーダー田中さんが、「元気?」の手話をする。佐藤さんから「元気」という答え。
そして、佐藤さんは、テレビを指さし、全身で何かを語る。
ぼくには、さっぱりわからない。山本さんもけげんそうな顔つきで見ている。
田中さんは.「ふんふん」とうなづきながら、ときおり手を動かして話を確める。
何が言いたいのかわかるんですもの
そのつぶやきが今のぼくの心に残っている
山本さんは、田中さんのようすを見て.
「今、テレビで火事のニュースを見たらしいわ。たぶんそのことを.話しているんだと思うわ。田中さんってすごい。あの身ぶりを見て、何が言いたいのかわかるんですもの佐藤さんの立場に立って考えるからなのね。私はまだまだだわ」
帰りがけ山本さんはつぶやいたなぜか、そのつぶやきが.今のぼくの心に残っている。
未就学という問題に立ち向かいながらも
同じ仲間として
交流を深めてきたろうあ者の人々
中学生高校生のための手話テキストのこの部分は、全国各地で当時行われていた学校にも行けなかったろうあ者。未就学という問題に立ち向かいながらも、同じ仲間として交流を深めてきたろうあ者の人々とそれを見つめた手話を学ぶ側の教訓を凝縮して制作した。
いくつかのポイントをまず述べておく。
1,家族とも会話も.「食ぺる」「ねる」ぐらいの身ぷりだけ
2,佐藤さんを訪ねるようになって5年。佐藤さんは.やっと心を開きその日の出米事を身ぶりで語るようになった
3,田中さんが、「元気?」のは手話をする。佐藤さんから「元気」という答え
4,全身で何かを語る 田中さんは.「ふんふん」とうなづきながら、ときおり手を動かして話を確める
5,田中さんってすごい。あの身ぷりを見て、何が言いたいのかわかるんですもの 私はまだまだだわ
6、山本さんはつぶやいたなぜか、そのつぶやきが.今のぼくの心に残っている
この部分にはろうあ者問題や手話の本質的な問題を織り込んでいた。
以下少し。解説していく。