手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろう教育 に 「厄介」「面倒」「邪魔」ということは一切ない

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手話を知らない人も手話を学んでいる人もともに  From hand to hand
{特別投稿}ろう教育の常識と前提 故藤井進先生からの伝承

 

ろう学校に赴任してすぐ
重複学級の担任 人生を決定づけた出会い
 

 京都ろう学校は戦時中の多くの問題を残しながらも1951年(昭和26年) 京都左京区御室仁和寺の現在の校地にに移転した。

 

 京都ろう学校移転後の翌年に藤井先生は、350人の生徒が在籍する京都ろう学校に赴任したことになる。

 

 藤井進先生は語った。

 

‥‥‥ ろう学校には先輩方がおられて学んで行ったという状態です。

 私は、小学部と中学部の重複学級教えていました。

 重複学級は、学校全体から言えば数名でした。

 350人のろう学校の生徒。

 小学部が一番多くて、学級156人。‥‥‥

 

  小学部が一番多くて、学級156人という人数は、1952(昭和27)年4月の京都ろう学校の状況を示しているがその生徒たちの様子は同一学年同一年齢でなかったのは言うまでもないことだろう。

 

  希望する子どもたちが
 聾学校に通えていなかった

 

 戦前、戦後を通じてすべての子どもたちが学校に通えたわけでない。

 

 京都聾学校は全国に先駆けてつくられたとされているが、希望する子どもたちが聾学校に通えたわけでない。

 

 ろう学校が義務制になっても。

 

 戦災から生き残った生徒たちがなんとか学ぼうとして聾学校の門を駆け抜けた。

 

 それを受けとめたため京都ろう学校の生徒数は、小学部だけでも156人という大人数だったのである。

 現在の京都ろう学校小学部の人数うから考えてもとてつもない人数だったのである。

 

 ここでも藤井進先生らは多大な努力をする。

 

経験主義的で徒弟制度が色濃いろう教育
 ろう学校の生徒に見合った教育が

    されていなかった

 

 藤井進先生が語った「ろう学校には先輩方がおられて学んで行ったという状態」「小学部と中学部の重複学級」を担任したということは次のようなことを包括している。

 

  先輩方がおられて学んで、と謙虚に話されているが以降に語らるように当時のろう学校の教育内容は、経験主義的で徒弟制度が色濃くろう学校の生徒に見合った教育がされていたとは言いがたかった。

 

 経験主義を振りかざす先生の基で、内心疑問を抱きながらもそれを克服する教育力量を切望し、切磋琢磨していたことが、「先輩方がおられて学んで」という意味である。

 

  「厄介」「面倒」「邪魔」な存在として
 考えられていた重複学教の子らとともに
 
 同時に当時の京都ろう学校では、ろう以外にさまざまな障害や病気を持つ子どもたちは、「ろう学校には先輩方」にはとても「厄介」「面倒」「邪魔」な存在として考えられ、新任教師の藤井進先生にその任を任せるが、藤井進先生はそのことに疑義は持たず、子どもが好きだ、ということでさまざまな工夫と創造した教育実践を試みる。

 

 このことが、日々、すべての子どもにひとしく教育を、という京都の教育に合流し、藤井進先生の人生を決定づける。