ある聴覚障害者との書簡 1993年 寄稿
はなしことばにも手話にも一長一短がある
手話を見きわめてゆけば、はなし言葉にある無駄なことがあったりして、手話で表現することを困難にしているとさえ感じられるときがあります。
日本語のはなしことば(音声言語)は、合理的で理論的にすべて解明できる言語では必ずしもありません。
はなしことばにも一長一短がある、手話にも一長一短がある。
でも、だからといって否定されるものではないのです。
それぞれの良さを生かして「共有」することこそ人間的コミュニケーションなのです。
あなたの手紙の新年会の様子から学びました。
結果的に「人間の思考」を相手に伝える
ことばは、人間と人間の意志を「伝達する手段」であって、人間はそのことばを媒介として「思考」してゆきます。
この場合、
①人間→手話←人間
②人間→音声言語←人間
という手段で結果的に「人間の思考」を相手に伝えてゆくことが出来るものなのです。
手話とはなしことばを
同じレベルで論じるのは無理がある
①人間→手話→人間(眼→大脳視覚野→大脳言語野→思考「理解・コミュニケーションの成立」)
②人間→音声言語←人間(耳→大脳聴覚野→大脳言語野→思考「理解・コミュニケーションの成立)
と言う過程で伝わってゆきます。(大脳のメカニズムについては、さまざまな意見がありますが、簡単に説明ます。)
すなわち異なった人間のメカニズムを使ってコミュニケーションをした場合、手話とはなしことばを同じレベルで論じるのは無理があるのです。
点字と墨字(漢字ひらがななど)を評価する場合も同じでしょう。
異なったものを同一レベルで
いいか わるいか どれがいいのか
はなしことばと手話を区別をするということは、どちらかか、一方だけを否定することではないのです。
各々の特徴を知って、それぞれを共有してコミュニケーションを成立させて、お互い思考していくことが大切だと思います。
異なったものを同一レベルで、いいか、わるいか、どれがいいのか、などと言うのは最初から成立していないはなしでしょう。
もとめられる 手話の科学的解明
手話は、視覚的コミュニケーション手段です。
視覚的な点で優位性を持っているのですから、その点をもっと科学的に解明してゆけば音声言語に匹敵する聴覚障害者のコミュニケーション手段として成立すると思います。
でも、日本では、それらのことがされないまま主観的に経験的に手話を断定されてしまっています。