ある聴覚障害者との書簡 1993年 寄稿
私は聴覚障害者のコミュニケーション問題を論じるときに基本的人権の感覚が脱落していることに気づくことがしばしばあります。
例えば、聴覚障害者のコミュニケーション問題を論じられるときに
健聴者→聴覚障害者
というケースは多くあっても
聴覚障害者→健聴者
というケースを論じるのは少ないことにもあると思います。
これを論じてこそ真の聴覚障害者とのコミュニケーションが明らかになると思っています。
そうでないと、聴覚障害者はいっまでたってもコミュニケーションの受け身でしかないようにさせられます。
自分の自分たちの手話を
表現しないという哀しい事態
手話の「発信」する側の「言いなり」(表現は適切ではないかも知れませんが、あえて書きます。)になってしまい、「弱い立場に居るろうあ者」は、「遠慮」して自分の自分たちの手話を表現しないという哀しい事態が生じるのではないかと。
聴覚障害者の基本的人権が保障は健聴者と
対等平等の関係のコミュニケーションから
聴覚障害者が主体的に自分の意見が言え、健聴者と対等平等の関係で討論できるコミュニケーションでないと聴覚障害者の基本的人権が保障されたとは言えません。
小さいときからあまりにも「受け身のコミュニケーション」に慣れさせられてしまってきた聴覚障害者が、「人間性回復のコミュニケーション」をどう獲得するのか、それは基本的人権を守る基本だと思っています。
手話テキストをつくらない手話学習
あなたが手話を知らなくて、手話を教えて欲しいと言った時に私は手話テキストをつくることが出来ましたが、つくって渡すようなことは絶対しないと思いました。
まず、あなたが言いたいこと、知りたいこと、困っていること、分からないことなどなどをはなして、それを手話で表すとどのような「表出」になるのか、ということからはじめました。
ひとつだけの手話にして欲しい
覚えていますか。
その時、手話で表現する「ひとつ」の方法ではなく、いくつものパターンを教えましたが。
あなたは、ひとつだけの手話にして欲しいと言いつづけました。