手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

聴覚障害は自分だけ みんなは聞こえている中で学んできたが

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            ある聴覚障害者との書簡  1993年 寄稿

 

  瀬山君は、学ぶということを「教えられたこと」を「そのまま覚え込む」と思っていないだろうか。

 

 また、教える人と学ぶ人を分けていないだろうか。

 

  学ぶ人々がお互いに学ぶあってこそ

 

 私は、学ぶことは学ぶ人々がお互いに学ぶあってこそより高く学べる、と思っている。

 もちろん、教える人から学ぶことを軽く見ているのではないが。

 

 瀬山君は、物心つく前から「教えられたこと」を「そのまま覚え込む」ことを「教えられ」てきたんじゃないだろうかと思うことがしばしばあった。

 

「とてもいい子」

と言われて知らず知らずのうちに

 

 「教えられたこと」を「そのまま覚え込む」ことが出来ることを「とてもいい子」と言われて知らず知らずのうちに自分もそのように思い込んでいたのでは。

 

  「嫌いだから嫌い」と友人と別れた

 

 例えば、手話は嫌いと行った時、聴覚障害の友人が

 

「なぜ、嫌いなの。自分は良いと思う。」

 

と言った時に

 

「嫌いだから嫌い」

 

と言って友人と会わなくなったことがあった。

 

  「嫌いだから嫌い」が けれどが付く

 

 でも、それから色々考えてその友人に謝った。

 

 その時、

 

「手話は、嫌いだ、けれど君が良いと思うならそうかも知れない。」

 

と「けれど」ということばが入った。

 

 「絶対」から「相対」への考えの変化があったと見ていたが、そうではないのかな。

 

  Aさんが言った「でもね、これと、あれと、どっちが食べたい?が通じない。

 

 どっち、けれど、が解らないと、選ぶことや選べないことやどちらかと言えばと選ぶことが出来ない、を瀬山君は簡単にクリアーしていた。

 

~だ、~です、~だ、~です、を繰り返していた君はそこにはいない。

 

  相手に自分の考えを伝える

     はなしことばも手話も口話

 

 はなしことばも手話も口話も、相手に気持ちや考えを伝える手段だから、相手に自分の考えを伝えたことになる。

 

 伝わったことは、「手話は嫌いだ」が「君が好きと思うなら」

と相手の気持ちも受けとめながら君の考えを言っているが、そこには君が「手話について考える余地」を伝えているのじゃないかな。

 

 「余地」「間」が会話にはとても大切。問いと問いの「あいだ」が大切なんだ。

 

 人間は、育ちの中で学んだことを身につけるが、学んだ過程は忘れがちになるものではないかと思う。

 

  学ぶ過程をもう一度教えてくれた
  未就学の聴覚障害者のAさんと仲間たち

 

 未就学の聴覚障害者のAさんと仲間たちは、学ぶ過程をもう一度教えてくれているのではないかと思う。

 

 ハッキリ言って、学ぶことは仲間で教え合い、学びあうことで、より多く、より深く、より高く学べるものだと思う。

 

 学ぶことと仲間。

 

 瀬山君は聴覚障害は自分だけでみんなは聞こえている中で学んできた。それはそれで大切だったと思うけれど、自分以外の聴覚障害者の仲間を「失っていた」、また自分以外の聴覚障害者の仲間から「学びあう」ことがなかった。

 

 未就学の聴覚障害者のAさんと仲間たちの努力から、学ぶことは大変意味のあることだと思うのだが。

 

  未就学の聴覚障害者のAさんと仲間たちが、学びあったことをもう一度考えてみよう。