ある聴覚障害者との書簡 1993年 寄稿
手づかみで食べる身振りから箸、箸を使う「過程」を考えてみよう。
手づかみで食べる身振りは、表現としてひとつ。
手づかみを仲間たちは、止めようとした人がいたけれど、止めなかった。
自分も同じ経験をしてきたからと言うことあるが、待った。
「待つ」という時間の「間」。
次に大変難しい、箸で食べる、の段階まで「待つ」という時間の「間」。
「食べる」から「箸」で「食べる」
ひとつ+ひとつ でふたつに
これはいろいろな過程があるが、兎にも角にも「箸で食べる」に行き着いた。
ここでは、「食べる」から「箸」で「食べる」という、ひとつ+ひとつ でふたつになった。
このことは、飛躍的変化なんだ。
が、ここで、
瀬山君は、未就学の聴覚障害者のAさんは、仲間たちに教えてもらったという一方通行の会話だと思っていないだろうか。
「微笑み」は学んだ「答え」でもあるメッセージ
Bさんは「手づかみで食べる身振り」をしてにっこり笑った、すると、Aさんは微笑んだ。BCDEさんらみんなも「微笑んだ」、という「微笑み」がAさんが学んだ「答え」でもあるメッセージなんだ。
その「微笑み」がBCDEさんらの喜びとなり、気持ちが通じあったという確信(学んだ)ことになるのではないだろうか。
成人になって困ったことはないと思い続けるか
気づいて大いに悩み続けるか
ひとつからふたつ。
このふたつになることであれもこれもとAさんは学び、BCDEさんらは自分たちが知らず知らずのうちに身につけていた「ことば」を再認識した。
再び学び直したと言えるのではないか。
学ぶことは一度だけではない。
何度も学ぶことで学びが深くなると思う。
瀬山君は、聴覚障害の仲間がいなければ、16歳の時、「聴覚障害で困ったことは?」と聞かれて「何にもない」と答えたままで成人になってそのまま思い続けるか、気づいて大いに悩み続けるかのふたつの道を歩んでいたかも知れない。
「ひとつ」から「ひとつでないかもしれない」道
ところが、聴覚障害の友人が手話を「なぜ、嫌いなの。自分は良いと思う。」あなたが思い続けていたひとつの道に問いかけた。
「ひとつ」から「ひとつでないかもしれない」道を。
この問いかけが聞こえる人だったら「何を言っているんだ」となったかも知れない。
でも聴覚障害として同じ、「ひとつ」の友人が違う「ふたつ目」の問いかけをした。
ここで学ぼうとした君は、素晴らしい。
「否定」と「否定」を繰り返しながら友人の意見を「肯定」しようとしたのだから。
これ以上書かないが、聴覚障害だから学ぶべきだということだけではないのだ。
新しい発見と喜びを知る
「学ぶ」ということの大切さ
聞こえない、聴き取りにくい、ともすれば孤独になることもあるが、同じ聴覚障害の仲間から学び合うことで、あなたも仲間も、新しい発見と、喜びを知ることにもなるという意味でも「学ぶ」ということの大切さを述べたのだが。
(了)