手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

味のない手話が多く 私もそれに慣らされて

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  En solidaridad con Takahiko Mochida  訳   1/12/2019 ねっとわーく京都

 

 1/12/2019 ねっとわーく京都に京都手話通訳問題研究会会長持田隆彦が、実に興味深いことをはなしている。

 

 このことに対するcomentarioを発信する。

 

 彼は次のように言う。

 

     手話表現自体が豊かだった

 

持田
 いま手話も変わってきています。

 

 昔の手話には指文字がありませんでしたし、普及もしていませんでした。

 

 学校でも口話教育が主流で、手話をやると先生や家族に叱られた時代でした。

 

 でもろうあ者の間では手話をこっそりやっていました。

 

 手話には「てにをは」の助詞を使いません。

 

 その代わり手話表現自体が豊かだったと思います。

 

 それがだんだんつまらなくなってきたように思います。

 

  最近の手話を見ていると表情はあまり使わない

 

持田
 手話は表情も大事だと思うのですが、最近の手話を見ていると表情はあまり使わないように感じます。

 

 例えば、「ありがとうごいます」の手話は、力士が賞金をもらうときの手刀を斬る動作から生まれました。

 

 「ご苦労様」は腕を握りこぶしでたたくのですが、これは力仕事をしてくれてありがとう=ご苦労様からきています。

 

  味のない手話が多く  私もそれに慣らされて

 

 私に手話を教えて下さった先生のお見舞いで病院に行ったとき、「自転車で来たのか」「そうです」のやりとりの後、握りこぶしで足をたたくのです。

 

 私は「足が痛いのか」とも思ったのですが、あとで気づくのですが

 

「御足労かけましたな。ご苦労さん」

 

と太ももをたたいて「足=腕=握りこぶしでたたく」のつながりで、いわばしゃれみたいに表現したのです。

 「ありがとう」

は手刀だけで表現し、足を使う人はいまはほとんどおられません。

 

 そういう味のない手話が多くなり、私もそれに慣らされてきています。

 

  多くの意味があるはず  味のない手話

 

  味のない手話、表情はあまり使わない手話。

 

 手話表現自体が豊かだった時代は、日本では消えているのか。

 

 それとも、それを知っている人々は、あきらめているのか。

 

 味のない手話という日本語表現は、考えると多くの意味がある。

 

 この場合の「味のない手話」は、奥行きの無い手話、情感のない手話、という意味だと思うが、私の知り合いは、「味」・「無い」・「手話」⇒味のない手話、とする。しかし、これこそ持田隆彦の指摘、「味のない手話」の典型ではないのか。