手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

気持ちを表現する手話 古いとされるのは なぜ

f:id:sakukorox:20210109191700j:plain

 En solidaridad con Takahiko Mochida comentario 訳   1/12/2019 京都手話通訳問題研究会会長持田隆彦 ねっとわーく京都

 

  持田隆彦は、日本の多くの手話と手話通訳を学び続けてきた。それだけの蓄積を身に纏った人物であると思われるが、じつに謙虚である。

 

 日本の手話に対する教授は多い。

 

  気持ちを表現する手話
 古いとされるのは なぜ

 

持田
 (手話は)表現のうわべだけが統一されていくように思います。

 IT革命、電話リレーサービスなどの中で手話表現統一の必要性もわかりますが、統一によって地域で使われている手話がなくなっていく過渡期かもしれません。

 

 私の手話でも

 

「そんな古い手話は使わない」

 

と言われることがありますが、気持ちを表現するときには、それは関係ないのではないか、画一化されていくのはちょっと寂しいなと思います。

 

 ろうあ者が生活してきた過去の空間が失われていき、ひいては過去の生活が見えなくなる、いや否定されているようでなんだか寂しいです。

 

 見えないのは良くはないはずです。

 

  落語で笑い話 笑えない話に

 

 手話だけではなく、何でもそうだと思いますが、その場の風、空気、空の色、匂いとか表情、目の動き、仕草など、トータルで相手のことがわかるのだと思います。

 

 IT画面、AIなどを通じては伝わらないのではと思います。

 

 最近は落語で笑い話としていた話が現実のものになってきていることがあります。

 

 自分自身将来のことを見通して創っているわけではないのですが、例えば手話通訳派遣公社という落語の中で手話通訳を依頼するとお金をとられる、しかも上中下の3つのランクに分かれているという話です。

 

  笑い話で創った落語が現実のものになって

 

「もう持田、落語を創るのはやめろ」

 

と言われるようになってしまいました。

 

  手話通訳の有料化  

お金を払わないと手話通訳者が来てくれない

 

持田
 お金を払わないと手話通訳者が来てくれない自治体も出てきています。

 

 あらかじめ年間いくらかのお金を払ったろうあ者のところには行くけれども、払っていない人のところには通訳派遣をしない制度が出てきつつあるそうです。

 

 手話通訳の有料化です。

 

 手話通訳の必要性はろうあ者だけではないはずです。

 

  50代、60代の人々が手話通訳の担い手に

 

持田
 5年に1回、雇用されている手話通訳者の実態調査が行われており、来年その調査の年にあたります。前回調査の結果では、京都だけでなく全国的に50代、60代が中心になっていました。

 

 20代、30代は少ししかいません。

 

 25年くらい前の第1回調査では30代、40代が手話通訳の担い手でした。

 

  全国の手話通訳者が集まり 
 手話通訳者の待遇や保障、技量向上をめざす

 

持田
 (私の場合は)仕事を夕方までやって、7時から通訳をして、終わって職場に戻って残業をするという形でしたね。

 

 得意先は待ってくれませんからいまなら大問題ですね。それが日課です。それが嫌ならサークルやめろと言われるのでね。

 

 当初は「みみずく」が通訳依頼を受けて派遣をしていました。

 

 その形が長く続き、京都では1969年に聴覚言語障害センターの前身である京都ろうあセンターができ、そこから依頼を受けて派遣されるようになりました。

 

 センターもお金がなく半分ボランティアです。

 

 待遇や保障、通訳者の技量向上などに努めなければいけないと、京都だけでなく全国に運動を広めるため、1968年に福島県で全国手話通訳者会議を開催しました。

 

 各地から70人ほどが集まりましたが、全員が通訳者ではありません。

 

  手話、通訳、聴覚障害問題、興味がある人なら

    誰でも参加でき
  そしてより良い社会になればと

 

 私たち通訳者と呼ばれるにはおこがましい一般のサークル会員も自由に誰でも気楽にみんなが集まれるようなものにしようと名前を全国手話通訳問題研究会として、手話、通訳、聴覚障害問題、それぞれに興味がある人なら誰でも参加でき、そしてより良い社会になればと1974年に名称を変えたのです。

 

 その2年後に京都支部ができました。

 

 私が「みみずく」の会長をしていたので、支部長をやれとそのまま今日に至っています。

 

  日本の手話通訳者は、1968年に日本中から集まって会議を開いている。

 

 それも手話、通訳、聴覚障害問題などからよりよい社会をめざすために。

 

 この動きは、国際的に見ても先進的である。同時に単に技術を磨くということだけでなくよりよい社会をつくるために位置づけて思考しているのは驚嘆する。

 

 1968年は、日本のみならず国際的に記念すべき日である。