手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

日本の手話通訳及びろう教育を牽引した人・人々を忘れてはならない 研究団体としての全国手話通訳問題研究会の発案者でもある

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             村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年から志向して

 

  村上中正氏の聴覚障害者の全面発達をめざす教育保障「高等学校における聴覚障害生徒の教育保障と「難聴学級」をめぐっての試論」(1971年)の探求の執筆者と連絡がとれ引用はもちろん再々考察することで了解を得た。そこで以降、「村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年から志向して」として執筆者と多少異なった立場から1971年に向けて書かれた村上中正氏の聴覚障害者教育試論を考えてゆきたい。

 

  脚光を浴びてきてはいない
手話や手話通訳、ろう教育の先達者

 

村上中正氏は、ろう学校教諭として1968(昭和43)年6月2日に行なわれた第1回全国手話通訳者会議及び手話講習会の司会を担当するなど重要な役割を果たされた。

 

 このことは現在ではほとんど知られていない。そればかりか村上中正氏が手話や手話通訳、ろう教育の先達者であったことを理解している人はほとんど居ない。

 現在まで、京都ろう学校で脚光を浴びてきたのは、1,2人の教師であってそこには村上中正氏の名前はない。

 

 そこで、村上中正氏の聴覚障害者の全面発達をめざす教育保障「高等学校における聴覚障害生徒の教育保障と「難聴学級」をめぐっての試論」(1971年)を主軸に村上中正氏の手話や手話通訳、ろう教育、そこから発展転化された聴覚障害者教育試論を考えてみたい。

 

  ろう学校長
手話を知つているのと知らないのとでは大変な差がある

 

 1968(昭和43)年6月2日に行なわれた第1回全国手話通訳者会議及び手話講習会で、
 福島県立福島ろう学校長の長谷川秀夫氏は、

 本日、全国各地からお集まりの皆様、御苦労様です。
 私は、ろう学校の校長になりまして5年になりますが、先輩の方々の生活の様子やお話をきくたびに、手話の必要性をつくづく痛感させられました。
 ろうあ者とのつながりを持つには、どうしても手話が必要です。手話を知つているのと、知らないのとでは大変な差があります。
 福島ろう学校としましても、校内の現職教員の一貫として手話の講習会をやりたいと思つています。
  本日のような会に参加出来ることを喜ぶと共に私も勉強させて頂きます。どうぞよろしくお願いします。

 

とあいさつし、ろう学校の現職教職員への手話講習会を提起しているが、その手話講習会が、

「ろうあ者とのつながりを持つには、どうしても手話が必要です。手話を知つているのと、知らないのとでは大変な差があります。」

という動機であることを充分理解されてきただろうか。

 

手話通訳の分野で
 大きな役割をはたしていた教育関係者

 

  第1回全国手話通訳者会議及び手話講習会の参加者は、34名。

 その中で教師15名、ろう学校寄宿舎、寄宿施設4名でありろう教育や教育に関わる参加者が圧倒的に多かったのである。

 

 即ち、手話通訳の黎明期とも言われる第1回全国手話通訳者会議及び手話講習会では教育関係者が手話通訳の分野で大きな役割をはたしていたことが解る。
 
  教育関係者が手話通訳の分野で大きな役割をはたしていく、その先駆者が村上中正氏であり、後に形成される全国手話通訳問題研究会の名称及びその取り組みと方向に重大な示唆を与えたのが村上中正氏であった。

 

研究団体としての全国手話通訳問題研究会

 

 村上中正氏が提言し、研究団体としての全国手話通訳問題研究会が形成されていく。

 

 全国手話通訳問題研究会は、絶えず研究、検討し、その研究成果を手話通訳関係や手話関係だけでなく、広く社会に還元する基本方向は見失ってはならないことであるとした、