村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
村上中正氏の1971年試論では、
とくに、「聴くことの可能性の追求保障」を以下の「試論」で具体的に説明もしている。それだけ、この「聴くことの可能性の追求保障」は重視されていたのだと思う。
近年、このような表現や意味合いがあまり取りあげられない。
しかし、国際障害者年から障害者の権利宣言までの過程を踏まえると、障害者の要求に答えることはもちろん断絶無き幸福追求権が綿々と織り込まれている。
「聴くことへの諦め」ではなく、可能性の追求を保障することは、村上中正氏の聴覚障害者の全面発達をめざす教育保障の重要な基礎と考えていいだろう。
科学技術の発達による機器の進歩
聴覚障害の程度と内容には複雑な差違
さらに、村上中正氏は、現在の難聴学級のあり方と課題を明らかにする。以下概要をあげる。
・科学技術の発達による機器の進歩は、聴覚障害者の聴覚保障の可能性を大きく開いた。
ほとんどの聴覚障害者が、現時点で「聴く」ことのできる対象として聴覚機能訓練による一定の効果が期待出来る。
・しかし、聴覚障害の程度と内容には複雑な差違があり、中でも難聴学級の対象は「耳がらのことばの聞きとりにあるある程度依存出来る可能性を持つもの」とされているが、その可能性の見極めは決してたやすいものではない。
「平均聴力」は、一応の目やすとはなっても
聴力損失の正しい姿をとらえるものではない
・いま一般的にいわれている「平均聴力」ー平均聴損率は、一応の目やすとはなっても聴力損失の正しい姿をとらえるものではない。
オーディオグラムーと、そこから考えられる音声のきここえや歪みの状態まで分析していかねばならないものである。そしてまた、大脳での記憶や作用とも結びついた状況の把握として、語音聴力検査等の面からの測定も必要になってくる。
・そしてその値は失官時期や、訓練の積み重ねなどともかかわって、オーディオグラムとの相関を必ずしももたないものである。だからこそ早い時期からの集中的な訓練と、全般的な発達を支えるための特定の集団ー組織としての学校ないしは学級が必要になってくる。
断片的な知識で判断することを排除
科学技術の発達と人間の発達を考えた場合
・聴覚保障の面からの個々の発達のちがいや、失官の時期によってその保障の対策は異なってくる。
だからといって、周囲からの支えとしての意味をもつ固定的集団をいつまでも置き続けることは、人間の全般的な発達を保障する道とはならない。
村上中正氏は、科学技術の発達による機器の進歩によって聴覚障害者の聴覚保障の可能性が拓いて来ていることを強調する。
グラハム・ベルが聴覚障害児教育や聴覚障害者のために科学技術を駆使して発明をした時代以降から聴覚機器は例えようもない飛躍を遂げている。
このことを「聴覚障害者の聴覚保障の可能性を大きく開いた」として「聴くことの可能性の追求保障」に位置づけていると考えられる。
だが、科学技術の発達と人間の発達との関係で考えた時に断片的な知識で判断することを排除しようとしている。
それは、「聴覚障害の程度と内容には複雑な差違があり」「ことばの聞きとりにあるある程度依存出来る可能性を」見極めるのは「たやすい」ことでないとしている。
これらのことは、今日でもしばしば起こる問題である。と書かれている。