村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
ろう学校を「一つの固定集団」として
考えるろう学校教師の弱さか
村上中正氏の1971年試論では、
だが、ろう学校を「一つの固定集団」として捉えただけで、ろう学校に存在する「質的に違った集団」の存在を見いだせないでいたのではないだろうか。
ろう学校には、各学部の生徒集団、寄宿舎における生徒集団、各学部教師集団、ろう学校職員集団、さらに各学部の生徒集団のなかに「重複障害集団」などなどがある。これらの集団は、共通したー同質の集団として捉えることも出来るが、同時に同質集団のなかの異質集団とも捉えることも出来る。
ろう学校を「一つの固定集団」
ではなく 他の学校との交流で変容
形成された共同教育の展開
村上中正氏は、ろう学校を「一つの固定集団」として捉えたが、同時期、京都北部のろう学校分校ではじまった「交流学習」から「共同教育」への取り組みは村上中正氏の「ろう学校を一つの固定集団」として捉えるのではなく、他の学校との交流で変容する「集団」でもあることを教えている。
「同質集団」「異質集団」の概念が先行
集団の捉え方の吟味不充分
「同質集団」「異質集団」という概念が先行して、「同質集団」「異質集団」の概念が充分吟味されていなかった証かも知れない。
だがしかし、ろう学校の生徒集団を他の生徒集団との有機的繋がりのなかから生徒たちの発達を目指したという点では注目しなければならない事柄である。
従って、この試論は1970年頃に(上)を、1971年6月以前に(下)を書いたと推測できる。
このわずかな時期に、村上中正氏にとって異動で山城高等学校(1971年4月から京都府教育委員会一定の措置と配慮により聴覚障害の受験と入学と入学後の教育保障を認める。)の聴覚障害担当となるなどの変化があった。
そのためだろうか、試論の(上)(下)では、「同質集団」「異質集団」についてばかりかそれまでの記述の大きな変化が見られる。と書かれている。
今日の教育にも通じる
京都北部のろう学校分校の共同教育
ろう学校を一括りにして考える傾向に対する厳しい批判とともに村上中正氏の弱点をも指摘されているようである。
これを凌駕したのが、京都北部のろう学校分校ではじまった「交流学習」から「共同教育」への取り組みであったとされている。
別途、京都北部のろう学校分校ではじまった「交流学習」から「共同教育」への記録集・報告、研究論文等を読んだが、京都北部のろう学校分校の共同教育については知られていないようである。
子どもたちが、自由に交流する中でお互いの理解を高めていく教訓は、今日の教育にも通じるものではないかと思われる。
しかし、京都北部のろう学校分校の共同教育については注目されることは今日でも少ない。