手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ひとみ みのる氏も聴覚障害の生徒と同じ学び舎で学びはじめた 1971年4月 

 

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
村上中正氏の「聴覚障害者の全面発達をめざす教育保障ー高等学校における聴覚障害生徒の教育保障と難聴学級をめぐっての試論ー」(1971年)の探求

 

  ひとみ みのる・人見実氏も

聴覚障害の生徒と同じ学び舎で学びはじめる

 学習のおくれをとりもどすことの出来る学校

 

 「たくましさを身につける」とは、具体的にどのような意味なのかは、4月以降の高等学校の教育に委ねられていたのだろう。

 

  だだ、この時期は、ザ・タイガース解散後人見豊(瞳 みのる)氏が、山城高等学校4年生に復学し、聴覚障害の生徒と同じ学び舎で学習する。

 

 聴覚障害の生徒も人見実氏も「学習のおくれをとりもどす」教育が保障されたことになる。

 

  ひとみ みのる氏に会いに山城高校に来た多くのフアン
 聴覚障害生はひとみ みのるも知らなかった

 

 ヒヤリング調査で解ったことは、人見豊(瞳 みのる)氏が、山城高等学校に復学したこと及び彼のフアンが山城高等学校に集まっていたが、聴覚障害の生徒はザ・タイガースも人見豊(瞳 みのる)も知らないので、なぜ他の学校の人が大勢来るのか、と先生に尋ねていたこと。

 

  「学ぶならいつでも」
何の制限も付けず受け入れ学ぶ機会を保障する

 

 山城高等学校定時制の教師によると、「授業中やけに棒を持って机を叩く生徒がいる」(注 ひとみ みのる)と思っていたが、退学した。

 

 (注 それからしばらくして)復学ねがいが出された時には何の制限も付けず受け入れが決まったとのこと。

 

 「学ぶならいつでも」と学ぶ生徒に学ぶ機会を保障する姿勢だったので特別にどうこうしたということはない。

 

 だが、人見実氏の授業に打ち込む姿に、(教師たちが)無理しすぎではないか、と思ほど学習していた。

 

 すべてを学び切る様子があったが定時制の生徒たちにはそういう生徒も居たものだ、と教師の側から報告された。

 

  高校入学最後のチャンス

 あとがない山城高等学校定時制二次試験

 

 山城高等学校(定時制課程)に入学するには、一次試験と二次試験がある。

 

 二次試験は京都の私学高校の(注 最終)入学試験が終わった3月末に実施されるため「高校入学最後のチャンス」でもあったとも応えられたので追記しておく。

 

  一つの生徒集団の中に

   正しく位置づく聴覚障害

 

 村上中正氏は、山城高等学校で聴覚障害の生徒を受け入れた教育をすすめるためには


「実践の中で集団的、組織的に総括し、問題点をあきらかにして、行政にその保障を要求し、高等教育全体をすすめる立場でこのとりくみをすすめなければならない。」

 

とする。

 

 そして「今後解決しなければならない課題」を

 

○選抜の方法についての検討。

○措置を講ずる「科」、学校の増加と、通学保障。

○卒業後の進路保障。

 

 生徒集団の課題としてー

 

○一つの生徒集団の中に正しく位置づく聴覚障害者、またはその集団。

○高等学校に学ぶすべての聴覚障害生徒の団結と連帯。

聾学校生徒集団との交流と連帯。


○すべての高校生の中における、聴覚障害者、およびその集団の位置づけの一層の発展。

 

などを挙げ「それを支える教師集団の力が必要になってくる。」としている。