手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

山城高等学校用創造的集団補聴器 次々と改良 健聴生徒と聴覚障害生徒が学べるために

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟
村上中正氏の「聴覚障害者の全面発達をめざす教育保障ー高等学校における聴覚障害生徒の教育保障と難聴学級をめぐっての試論ー」(1971年)の探求


  京都府がオーダーメイド「可搬型集団補聴器」作成

 

 高等教育全体をすすめる立場で行政にその保障を要求する一例が、追記で書かれている。

 

 六人の聴覚障害生徒は、このために製作された「可搬型集団補聴器」を教室に運びながら、あるものはヘッドホンをつけ、またあるものは個人補聴器を利用して、それでも一、二人を除いてはことばのききわけ」が十分できないままに、毎夕「楽しく」学校に通っている。

 

  行政にが保障したのは、製作された「可搬型集団補聴器」ではないだろうか。

 

 そうなるとすべて山城高等学校用にオーダーメイドされたということになる。

 

 記録に残る画像を見る限り、非常に大きい「可搬型集団補聴器」であったが、次第に小型化している。これらの費用を京都府が独自に支出したことになる。

 

 公費によるオーダーメイド「可搬型集団補聴器」作成。当時の全国各県の状況を調べてもこのようなことをした都道府県は見当たらない。

 

 壮大な構想の中に山城高等学校と教育展望を考えて

 

 聾学校生徒集団との交流と連帯を課題として出しつつも最後に、すべての高校生の中における、聴覚障害者、およびその集団の位置づけの一層の発展を述べてくるところに村上中正氏の考えがあるのだろう。

 

 当時の記録を調べると京都のすべての高校から生徒たちが集う、春期・秋期高校生討論集会が開かれ、障害児学校や普通高校で学ぶ障害生徒が参加していたことを一層恒常的に広げる狙いがあったのかも知れない。

 

 兎にも角にも壮大な構想の中に山城高等学校を位置づけ、教育展望を考察していたのではないかと思える。