communion of mind with mind
truth
「対の手話」は、幾通りにも組み合わせることが出来、その限界はない。
手話表現を「ひとつ」だけとする固定概念は、その「限界なき手話表現」を理解する事は出来ないのである。
それを認める事の出来ない人々は、「限界なき手話」を「古い」「昔」「非標準」「方言的」と決めつける。その安易さで「自己満足」「自己防衛」していることもあるように思われる。
「限界なき手話表現」と表記したことに人間が発露する手話の無限性を見出すべきだろう。
各種手話の資格試験は、すべて可否で決められ手話表現の無限性を欠いてはいないだろうか。
手話など資格試験などを全面否定するわけではないが、人間の手話表現に制限を加えるべきではないと言えないだろうか。
「対の手話」の玄理は。数え切れない意味のある組合せを可能にする。
その意味ある組合せに、方向・表情ー眼ー(こころ・精神・思考)・動きが加わると、同じという意味を持つ手話が、立体的な表現として立ち現れてくる。
これに時間の概念、過去現在未来の時空が付け加わると、「同じ」ということばだけで置き換えることの出来ないものとなる。
手話のもつこの表現方法を、一つだけの「はなしことば」で置くことは出来ない。
そのことに少しでも気づいた手話通訳の人は、手話表現を直訳・意訳・翻訳などすることを放棄してはならないのは言うまでもない。
ここに手話通訳の高次専門性があることを見出し、主張する人は少ないのではないか。
空間と時空の組み合わさった手話を文字やはなしことばに置き換えることなしに、手話を主としてコミュニケーション手段とする人々とそうでない人びととの融合は可能にならない。
それを放棄して、作成された手話を適応することだけで達成感を抱く考えは排除されなければならないのではないか。
空間と時空の組み合わさった手話を文字やはなしことばに置き換えることのキーは、手話の玄理にある。
日本では、その手話の玄理研究は永く無視され続けて来たと言えるだろう。
これらを考える具体的取り組みを若干紹介する。