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手話と手話通訳

京都の手話通訳者の取り組みと研究の中からの伝承と教訓をみなさまに提起します。戦前戦後の苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを決して忘れることはなく。

民間治療・民間信仰 手話を使うと竹のムチがふりを落とされたことから得たもの

 

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて    

 

  竹で耳の穴に吹き込むを治療

 

 小野村さんは、65歳の時に被爆体験を証言してくれている。

 

 6人兄姉の4男として大浦町の、鼈甲細工を家業とする家に生まれた。

 

 小野村さんのお父さんは、49歳の若さでなくなり、長男が大黒柱となって家をささえた。

 

 お父さんの死後、小野村さんは脳膜炎を患い高熱のため耳が聞こえなくなった。

 

 5歳まで当時高価だったラジオの音楽をなんとなく聞こえていたことが次第に薄れ8歳のとき聞こえなくなる。

 

 母は、小野村さんを連れて、六地蔵へお参り。竹で耳の穴に吹き込むを治療をした。

 

 民間治療・民間信仰。

 

 それに頼る傾向は過去も現在も同じようにハンディーを負った人々の上に広がっている。

 

      軍隊さながらの体罰の横行      手話を使うと竹のムチがふりを落とされた

 

 小野村さん11歳。

 

 ろう学校に入学。

 

 小学部から仮校舎で学び、その後上野町の新校舎に移り中学部時代を過ごす。

 

 8名の同級生が、卒業したのは2人だったという。

 

 ろう学校での勉強は発語訓練が厳しく行われていた。

 

 母と子の話の中で口話を覚えていく。

 

 ろう学校では手話が禁止。

 

 手話を使うと竹のムチがふりを落とされたという。

 

 手話を使うことは体罰を受けることだった。

 

 イスを持ち上げて手を水平にしたままイスを持ち続ける。

 

 軍隊さながらの体罰が、ろう学校でも行われていたのである。
 
   手話教育から口話教育への転換に対して

 きわめて批判的な先生の励まし

 

 中学部1年。小野村さんは木工科を専攻する。

 

 戦時色が強くなったろう学校の授業、午前は教科、午後は職業科で学びつつ次第に畑仕事が増えていく。

 

 ろう学校時代、小野村さんにはあることが強い印象として残っている。

 

 井上先生の手話教育。

 

 手話教育から、口話教育への転換に対してきわめて批判的であり、小野村さんたちのコミュニケーションに深い理解を示したこと。

 

 それは小野村さんたちにとってこのうえもない励ましだったのである。

 

  子どもたちにとってマッチした

 教育方法 教育内容が
  真剣に教師の中で考えられていた

 

 戦争前は、教師は自由に教育のことを語り合い、自由に教育を行えなかった面は強い。

 

 しかし、その中でも子どもたちにとってマッチした教育方法、教育内容が真剣に教師の中で考えられていたことが小野村さんの証言からも推察できる。

 

 小野村さん22歳でろう学校を卒業。

 

 12年間学んだろう学校での生活は、何度も繰り返すことになるが聞こえない人々にとっては極めて重要な影響と生きる力を形成していくことになっていた。