communion of mind with mind
視覚した聞えないひとびとが全身全霊で訴えている「手話」を「無視」する限りは「手話を語る資格はない」とさえ思えてくる、と前回述べた。
手話をさまざまに解釈する人や「昔の手話はといつの時期かも明らかにしない昔の手話」とされたりしている。
「今は昔」という今昔物語の表現ではなく、あいまいに昔の手話としている。
ではそれに対峙して今の手話は「なになのか」も説明しない。
動画で「昔の手話」としてSNSに流すだけで、とてもあいまい、と思える。
手話の表し方にはさまざまあり、それぞれ個性的である。
が、しかし、その中の共通する手話の表現を見失ってはならないと思う。
「爆弾投下、炸裂、雲もくもく」
が、
「原爆の手話」
とされてはならないのもその重要な意味である。
手指だけでない全身の動きのなかで臨場感を持って手話を見なければならないと思うのは、生死と有と無の世界で生き残れた聞えないひとびとへの連帯と人間の尊厳で見て、表現しなければならないひとつが、
原爆
という手話もそのひとつである。
この手話が伝承されないで、日本手話も日本語対応手話などと「言うだけ」ですましてはならない、と思う。
原爆投下地点には、巨大な穴は、死体で埋め尽くされてしまった。今は、土が被せられてお花畑のようになっているこの真下に数え切れないひとびとが埋まっている。
と話された老婦人。
アヤキさんは、やっと手話で語った。
「原爆投下、被爆、死んだ人」「生き残った人」「原爆投下のその後、その前」を「私たちは、文字として記録して多くの人にも知ってもらいたい」し、「どこまでも平和を求めて生き続けなければならないと思い、3人で自分が被爆した当時を思い起こし、考え、ここまで来た」
「私たちは、聞えない、話せない」
ということもあり、原爆に被爆したことすら知られていない。
と、老婦人に語った。
静かにその話を聞いていた老婦人は、眼をまっすぐアヤキさんに向けて、
「私も85歳超えて、今まで爆心地の川で洗濯をししていて生き残った。」
「このことを絶体だれにも言わなかった。」
「言えなかった。」
「でも、あとは死ぬだけ」
「私が受けた被爆体験をみなさんに聞いてもらおうという気持ちになってした時でした」
と話した。
そして二人は少しだけ笑顔になった。
言えなかった、話せなかった、
このことでアヤキさんも老婦人も共通した気持ちが通じたようであった。
それ以上、話はなく沈黙が続き、老婦人と別れた。
長い沈黙のあとアヤキさんは、
「ろうあ者の被爆体験を聞き、記録する取り組みは、ろう学校にも行けず、読み書きも出来ないろうあ者から初めて欲しい」
と言って後は何も言わなくなった。