communion of mind with mind
2023年。8月6、8月9日 。
平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)・長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典がTVに流れていた。
手話通訳の手話を見ていたが、驚き以上に哀しみと怒りが混在してTVを消していた。
「原子爆弾が地上に落ち きのこ雲が‥‥‥」という手話だった。
アヤキさんも老婦人も、広島、長崎、各県で被爆を体験した人の原爆の手話は、「地上から空に広がる雲のいくつかの層」を現しはしていなかった。
かなり遠くで原爆を見た人でさえ、地上からではなく 空中に湧き上がるさまざまな色をした輪の層を表現していた。
すなわち、老婦人の言った、
「ようここに来ていただいた‥‥‥みなさんは、むこうの平和公園に原爆が落とされて爆発したと思われているが、ここ、この真上で爆発したんです。その時、私はそこの川で洗濯していたんです。」
地上に落下して爆発したのが広島、長崎の原子爆弾ではなかった。
上空で原子爆弾が炸裂させたからこそより一層大量のひとびとを虐殺し、あらゆるものを破壊したのである。
空中で爆弾を炸裂させることによる大量虐殺の「残虐な効果」をどのような時代が去っても消し去ってはならないのである。
8月6、8月9日になると、ほとんど米軍機から撮影されたモノクロームのきのこ雲とされる映像が映し出される。
が、しかし、そこに住んでいたひとびとやそれを観た人のことは映像としては流されない。
絵や表現されたものは、数多く残されている。
ましてや、広島、長崎で原爆の被害を受けた聞えないひとびとの数多く記録されている。
原爆は、頭上の遙か上で炸裂したと。
きのこ雲が見えるはずがなかった。
のに、手話で、
「爆弾投下、炸裂、雲もくもく」
が、原爆の手話とされていいのだろうか。
原爆投下とされていいのだろうか。
日本手話、日本語対応手話などなどとさまざまに手話を「論じ」ている人は多い。
だが、みたそのままを全身で現すことを手話と見なしていないのではないか、とも思えてならない。
みたそのままを表現する手話。
視覚。
それすらも消し去ってはいないだろうか。
「視覚言語としての手話」と言うひとびとも、視覚した聞えないひとびとが全身全霊で訴えている「手話」を「無視」する限りは「手話を語る資格はない」とさえ思えてくる。