communion of mind with mind
沈黙のあとアヤキさんは、「ろうあ者の被爆体験を聞き、記録する取り組みは、ろう学校にも行けず、読み書きも出来ないろうあ者から初めて欲しい」と言って後は何も言わなくなった。
と、
老婦人は、眼をまっすぐアヤキさんに向けて、「私も85歳超えて、今まで爆心地の川で洗濯をししていて生き残った。」「このことを絶体だれにも言わなかった。」「言えなかった。」 「でも、あとは死ぬだけ」「私が受けた被爆体験をみなさんに聞いてもらおうという気持ちになってした時でした」と話した。
あの時のことばが、今も去来している。
地獄以上の原爆投下という大虐殺。
その中でも生き残った人々の話をひろく世界中の人々に知らさないと、真の平和が甦らないと考えた。
だが、老婦人との話をしたあとでアヤキさんが、ろう学校にも行けず、読み書きも出来ないろうあ者から初めて欲しい、と言った訳(わけ)はとても意味深い。
アヤキさんは、読み書き出来る。だが、「読み書きも出来ないろうあ者から初めて」と語ったひとつには。
ひとつには。
読み書きも出来ないろうあ者が読み書き出来ないが故に、訴えたり、伝えたり、もちろん文字として表現出来ないことは痛感していた。この人たちから記録をという意味には、「聞き、問い、文字にして、問い、聞くなかで」、
読み書きも出来ないろうあ者がすこしでも読み書き出来るようになって欲しい、
いや当人たちから切実なねがいを聞いていて、空前絶後の悲惨な体験から、それを表現出来ることを「獲得」して欲しい、
とのねがいがあつたこともあったと後年解りはじめた。
近年、このことを手話を学び手話通訳資格を持つ人に話をすると「動画に記録すればいい」と言う人が多かった。
聞こえない人は手話を知っているとする「単純な思い込み」「機械的対応」は、「動画に記録すればいい」と言う人に課題があるというよりも、手話を教え、資格を与える側の重大な欠落があるのではないかと思う。
人間どうしが「会話」する基本条件を取捨した手話通訳の資格制度になっていないか、とまず述べておきたい。
以下 言語を
人間が音声・文字・手指動作などを用いて事態を伝達するために用いる記号体系。また、それを用いる行為。
ある特定の集団が用いる、音声・文字・手指動作などによる事態の伝達手段。
などを前提に述べてゆきたい。