communion of mind with mind
人間どうしが「会話」する基本条件を取捨した手話通訳の資格制度になっていないか、とまず述べておきたい、と書いたことに多くのご意見をいただいた。
手話テキストで学び、資格試験を受けるひとびとにとっては「これが手話」「このように手話をするの」と思われるのはやむを得ないことかも知れない。
だが、手話の表出には多種多様である、それは人間であり生活しているから当然のことである。
それを「手話テキスト」で教える場合は、こういう表出もあるこういった‥‥‥などと教えると学ぶ側からすれば戸惑うかもしれない。
だがしかし、あえて「手話の表出には多種多様である」を前提に最初に教え、学び合うことは人間としての当然のことではないのか、と思う。
手話を教える人の側に「手話の表出には多種多様である」という基礎知識とその獲得がなさ過ぎるのではないかと思える。
だから「この手話は正しい」とか「この手話は間違っている」と断定する。
フレキシブルな思想がないのである。
人間による人間のコミュニケーションは、単純な手指の動きではない。フレキシブルな思想がない、から手話で表現されることを音声言語や文字に「写し変えたり」出来ない、と最近言い切ることにしている。
「音声言語や文字の表現が極めて不充分な人」ほ「手話通訳」出来ないと思う。
手話を学ぶことは、手話そのものを学ぶこと同時に「音声言語や文字の表現」を融合して学ぶことなのである。
ネット上で、昔の手話で語る、と動画をアップしている人は、手話を知らない人に何を語っているのか知らせようとしないと思っていた。最近まで。
だが、「昔の手話で語る、と動画をアップしている人」自身が動画で記録されている手話の表出を「読めない」「音声言語や文字の表現が出来ない」と思うようになった。
手話で表出することは、「音声言語や文字」と絶体対立関係にあるのではない。
むしろ「手話で表出することは、音声言語や文字」と融合したものである。
以下順次述べて行きたい。