手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

2021-01-01から1年間の記事一覧

口話唯一 とすることに反して 手話唯一 とする 対立 構造 教育実践として提案

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論には、 手話唯一と聴覚障害の人びとを 「分断」する動き 「聞こえの程度」がこれほどなのに「これほど聞きとれている」{優秀な生徒}などの記述は一切ない。 少しこのことで付記し…

手話 集団的なコミュニケーションの役割を評価 教育的にも人間形成にも少なくない影響

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論では、 手話の役割 教育的にも 人間形成にも少なくない影響 村上中正氏は、集団的なコミュニケーションにおいての手話の役割を評価し、それが教育的にも人間形成にも少なくない影響…

日本最初公認手話通訳者 の ろう教育への視点

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 日本最初の公認手話通訳者 村上中正氏 村上中正氏は、日本最初の公認手話通訳者である。(1971年京都市) 行政の長が、手話通訳者として公認したのだからろう学校以外の手話通訳の実績がかなりあったのだ…

集団コミュニケーションの手話 と「人びとへの尊厳」と「自尊心」 手話は討論異なった意見を一致 行動する手段

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 聴覚障害の生徒に「自尊心」が育つ 一定の「教育的支え」を 以下、村上中正氏の1971年試論を述べることなくすべて掲載する。 思春期と言われる多感な時期と述べたが、この時期の悩み続ける聴覚障害児にある…

聴覚障害者集団 の 力とエネルギー を持続させるための教育

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論では、 聴覚障害者集団 積もり積もった要求を整理し行政や国に 聴覚障害者集団という表現で聾学校中学部の教師たちは教育課題を検討していた1968年。それまで聴覚障害福祉という…

聴覚障害者 自己認識との関係で手話が重要な「指標」

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論で、 現実に聴覚障害であるという問題に その時期がいつか 「聴覚障害者が聴覚障害を否定し、無関心で過ごすフリーダム」いても、現実に聴覚障害であるという問題にぶち当たる。 そ…

聴覚障害者が聴覚障害 を否定し 自己否定  聴覚障害者が聴覚障害 を肯定し 自己肯定 どちらも評価しない

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論では、 「聴覚障害でない」と固く信じこむ インテグレーションした生徒や卒業生の中に 手話を忘れたと敢えて書かれ課題とされている聴覚障害の生徒や聴覚障害者たちの状況を当時の記…

手話か口話 かという問題でなく 互いのコミュニケーションを認め合う基本的人権

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論では、 日本国憲法第97条には、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び…

手話を禁止する こと は基本的侵害 と 教師 公然と 伝習される手話 のなかで

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論は、 密かに伝習されていた手話が 公然と伝習される手話へ 戦後、ろう学校に生徒が集まった時、断絶していた手話はろう学校の同窓会などを通じて「密かに伝習されていた手話」が「公…

戦前のろう学校 「教師には従順」な姿を見せつづけながら 生み出だし創造された手話の価値

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 以降は、村上中正氏の1971年試論をそのまま掲載する。 手話を忘れた聴覚害者にならない ○手話を忘れた聴覚障害者にならないように このことについての討論は、なぜ要であったのかを若干考察したい。 タカナ…

ろう学校 の名称が聴覚支援学校など変更され失われること

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 1971年試論は、 近年、ろう学校の名称が聴覚支援学校などの特別支援学校という名称に変えられているところが多い。(制度的に一律名称変更するようにされていない。また特別支援学校という名称に違和感を…

ろう学校教育や難聴学級の教育の改革 の主体と行動をあきらかに

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 1971年試論では、学校、学級間の教育環流が述べられている。 ○難聴学級進学者が得た保障を、聾学校の生徒集団もそれに学んで学校に要求すること ろう学校の生徒が、難聴学級などに「転校」してそこでよりよ…

ろう学校では手話禁止 のとする根拠なき断定 戦後の教育基本法 学校教育法なども踏まえて事実直視を

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 京都ろう学校授業拒否事件については、根拠のない伝聞と先に挙げた孫引きの孫引きなどで「当時はろう学校では手話禁止され」「生徒がちょっとでも手話を使うと教師が」禁止されていたと広範囲に広められ、…

ろう学校生徒 聞える生徒と交流・討論 大きく変わる姿を見据えて

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏らの「健聴との連帯を強めるため有利な条件をもつ難聴学級進学者が積極的な役割を果たす」ことの意味を、当時の1960年代後半の京都の状況を加味しながら考察すると、次のような解釈が生じて…

ろう学校の教育 同等の教育から大きく逸脱させられていた 「普通教育に準ずる」 とされたが 

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 1971年試論で、 村上中正氏らは、「京都ろう学校授業拒否」事件の生徒会の中心メンバーが生徒をまとめていく様子を詳細に見ていたからこそ、「健聴との連帯を強め、そのために有利な条件をもつ難聴学級進学…

聴覚障害者 も ともに人間解放の道のなかに

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論は、さらに現代的にも重大な提起をしている。 予断と偏見の重圧を跳ね返す 人々と手を携えて重圧からの解放を 1968年から1970年代にかけて聴覚障害者の運動は「黎明期」とも…

ろう学校の教育で聴覚障害者として団結 それをもちつづける

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論では、さらに以下のことを投げかける。 ○聴覚障害者としての団結をもち続けること ろう学校の教育で、聴覚障害者としての団結をもち続ける、という課題を提起すること自体、教育に離…

 聴覚障害児者に対する「予断」と「偏見」   それらを糺す動き

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論では、さらに次のように書かれている。 聴覚障害児者に対する「予断」と「偏見」 それらを糺す動きは徐々に拡がって拡散する時期 1940年代、1950年代、1960年代は、聴覚…

平等であっても内実は不平等 ろう学校の教育や他の教育でも

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論は、 学校や学級で障害生徒の優劣を ほぼ決めていた ○難聴学級と聾学校は、優劣の関係でとらえるべきでないこと エリートインテグレーションの章でも触れたが、インテグレーションの…

聴覚障害者集団の力に かぎりない信頼を寄せた教育

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論は、 聴覚障害者集団の力に かぎりない信頼を寄せた教育 ろう学校の教師としても、聴覚障害者集団の力に限りない信頼を寄せて、その立場からろう学校教育や難聴学級教育をも論じてい…

聴覚障害者集団 社会で生き抜く教育力と現状を打破 未来を創造する力

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 たんに手話を覚えるとか手話での授業を強調しているのではない 村上中正氏の1971年試論 村上中正氏は、成人した聴覚障害者の集団からの視点や生徒たちの視点などを交叉させながら論述をすすめている。その…

難聴学級と聾学校は優劣の関係でとらえるべきでない だれがどちらに合っている どちらに進むも 協同して 応えよう

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論には次のように書かれている。 ろう学校中学部の徹底討論と今日への伝達 村上中正氏が、ろう学校中学部の教諭であった時、ろう学校と難聴学級やそこでの教育について中学部の中で徹…

義務教育が真にうけられるとは 突きつけられたろう学校の根本問題

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論では、 ろう学校の生徒も難聴学級の生徒も ひとしく教育をうける と 京都ろう学校では聴力の程度に関わらず教育保障をすすめるため討論がすすめられていたことが窺える。 「すべての…

ろう学校には「聾」の生徒が学び「中等度難聴」の生徒は学んでいない  とする無理解と事実

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論では、 昭和42年度、聾学校中学部一年生には、聴力損失の比較的軽いものが数名いた。これらの生徒の聴力は、いわゆる中等度難聴であり「ことばのききとり」への見通しは期待できる…

インデグレーションの問題点を解消するために

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論を 村上中正氏はろう学校とか難聴学級とかの教育形態にたいする教育形態論ではなく、難聴者とろう者、ろうあ者をも包括して社会の中で学び、生きることを思考したのであろうと書いた…

「難聴」を聴覚障害者集団からひき離す道をたどるとは   多すぎる示唆

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論は、 村上中正氏の「試論」の前提には、当時の教育基本法、特に教育諸制度や教育保障と関わって 教育基本法第10条(教育行政) 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し…

教育展望の大前提 危険な教育方法論 国民全体に直接責任を持つ教育

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 危険な教育方法だけで教育を述べる 教育を考える前提として教育をすすめる教師たちには、単に教育方法だけで行えないことがある。このことを理解しないで、教育を切り刻んで論じる教育研究者が少なくない。…

インテグレーションでない 日本の高等学校の教育の「転機」

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 日本の高等学校の教育の「転機」 村上中正氏の1971年試論は、 1971年、京都府教育委員会は聴覚障害児15歳、高校入学を認める方向で大きな転機を迎えていた。これは、日本の高等学校での教育にとっても「転…

ろう教育を科学に 経験・思い込みの教育を排除して ろうあ協会が要求  ろう学校の授業拒否事件の教訓

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 聴覚保障と科学技術の進歩などを1971年当時受け入れられたかどうかの疑問があったとした。 この考えを解き明かすキーは、京都府ろうあ協会(当時)が、1969年から1970年にかけて京都府・京都府教育委員会、…

人間発達 ユネスコ「学習権宣言」よりも先んじた提起

村上中正氏の聴覚障害者教育試論 1971年を思惟 村上中正氏の1971年試論を考え、留意点として、以下の引用にある「障害者の権利を主体とした発達保障」「科学技術の進歩にともなう聴覚保障」を挙げておきたい、と述べてきた。 教育における権利と発達保障…