(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて
木工の仕事ではなく、鼈甲の仕事をつかざるを得なかった小野村さん。
家族と一緒に、鼈甲細工の仕事を10年間続ける。
長崎の鼈甲細工は、非常に有名で繊細な技術が要求された。
鼈甲細工は、平和時の産業。
戦争はその仕事を奪う。
1943年徴兵検査の通知 徴兵検査 その時
1943年 徴兵検査の通知。
兄の付き添い。
兵役免除。
この日のことはあまり詳しく証言されていないが、すでに述べてきたように付き添いのお兄さんにとっても小野村さんにとっても屈辱的な日であったことは間違いがない。
小野村さんは多くの捕虜と共に三菱造船に働きに行くことになる。
危険な造船作業。
小野村さんは恐怖に震えてその仕事を引き上げる。
鼈甲細工の仕事を再開。
みんな戦地で
死にものぐるいで頑張っているのに
このこと時期は曖昧だが小野村さんは、次のようなことを証言していた。
「兄からは『みんな戦地で死にものぐるいで頑張っているのに』と、皆がいる銭湯でひどく怒鳴られました。」
この文章を当初読んだときになんとなくよくあることだと思っていた。
徴兵検査とその後のことは、戦争体験を聞き、記録する仕事を京都でもしていたからである。
ところが、本の編集をして、校正して、出版して以降何度も読むうちに何かのわだかまりを感じた。
なぜ、みんながいる
一番声が響きやすい銭湯だったのか
それは、小野村さんの兄さんが「皆がいる銭湯でひどく怒鳴」ったという部分である。
なぜ、みんながいる、しかも一番声が響きやすい銭湯だったのか。
近所の人々すべてに、徴兵検査が不合格だったことが知られてしまう。それは、兄さんの腹立たしさが堪えきれなくなって発した言葉だったのだろうか、と。
長崎に連絡してその時の兄さんの表情を小野村さんに尋ねてもらった。怒鳴っていることは解ったが、表情はいつもの兄さんの表情だったとの返事が届いた。
聞こえないが故に戦地に行けない
それを肯定できない軍国主義の重圧
聞こえないが故に戦地に行けない小野村さん。
そのようなことがだれでも解るのに、それを肯定できない軍国主義の重圧。
回りの人々は理解をしていても口に出して言うことはできなかったのかもしれない。
いや、そうに違いない。
兄さんも回りの人々も小野村さんのことを分かりながらも、大声を出して小野村さんを叱る、叱らざるを得ない、社会状況。