(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて
哀しみの大浦天主堂に活きる姿をみる
佐々木忠さんは、64歳の時に被爆体験を証言してくれた。
もう30年の前のことになってしまった。
浦上天主堂で少し気取った同級生と共に少し内気な様子を見せる佐々木さんの姿が本の写真でうかがえる。
写真の背景にある浦上天主堂が被爆でどうなったかを知っているだけに佐々木さんたち聾学校の仲間と先生の姿に平和で清々しい勢いを感じる。
あまりにも多くの時間が過ぎたけれど、この写真は少しも色褪せていなかった。
そのことがなぜか今も沸々と想い出されてならない。
聞こえなくなった原因とそのこころ
佐々木さんは、2歳の頃子守をしていた人の不注意で石畳の上に落ち頭を打ったことが原因で聞こえなくなったと母に聞かされて育っている。
佐々木さんの発語状況から2歳頃であったと考えられる。
私は、聞こえなくなった原因について石畳の上に落ちたかどうかは不確かであると考えている。
佐々木さんたちの同時代の時期の聞こえない人々の聞こえなくなった原因説に落ちた、どのことがあまりにも多すぎるから。この事は私の主観かも知れない。
私が手話で聞こえない人々と語ることが一日の時間の大半となった頃、よくナゼ、ナゼと聞いたが聞こえなくなった理由として階段から転げ落ちた説があまりにも多いので驚いた。
階段はそんなに転げ落ちやすいのか、転げ落ちると耳が聞こえなくなるのか、と思うほどだった。
いろいろ聞いて回ったり、聞こえない人の両親にも直接聞いたりしたことがあったが、階段から転げ落ちたからだ、と説明せざるを得なかった親の立場が理解出来ていくと共にそれらのことに拘ることがなくなった。
辿り着いた先は聾唖学校
佐々木さんの証言を読んで再び過去の思い蘇ったりしたが一つの問題提起としてだけに留めておきたいと思う。
「子守さんの背中から」「落ちて」という部分に佐々木さんのお母さんの哀しみの想いが籠められているようにも思うのだが。
ともかく佐々木さんを負ぶった母は、東奔西走し良い医者を捜した。
結局、行き着いたのは聾唖学校。
その門をくぐることになる。
聞こえていたのに……というお母さんの辛く悲しい思いとは別に佐々木さんは手話と出会い、手話に驚き、手話を中心に友達を作り楽しい学校生活を過ごすして行くことになる。
闇から明るさを見いだした
今でも覚えていますと言い切る
人間としての復権=リハビリがこれほど簡素に生き生きと語られていることはないと思えるほど淡々と。
この淡々として語られるところに教育としての学ぶべき多くのヒントと活きる意味があると考えるのは私が教師だったからだろうか。
コミニュケーションの獲得。
友人などの聞こえない仲間集団。
楽しい日々の生活。
佐々木さんは文字を獲得し、自己表現も獲得して行く。
「私の心の中は、暗闇から明るくなったような気がしたのを今でも覚えています」
と言い切る。
「自分で聞こえないことを証明」
した徴兵検査
さらにそしてそれから近所の聞こえない子どもたちと仲良くなり遊んだという。
佐々木さんのために東奔西走した母も父も
「自分のことは何でも自分でやりなさい」
と言い自分で判断することと行動力を獲得した佐々木さんは徴兵検査まで「自分で証明」してしまう。
私は、兵役回避、という反国家的行動として非人間的扱いを受けた聞こえない人々の徴兵検査の話は数多く聞き、調査したことがあったものの佐々木さんのように徴兵検査で「自分で聞こえないことを証明」した例はまったく知らなかった。
このことの意味はとてもとても重い。
信じがたい過去と圧迫や耐えがたい重圧に活き抜いたたくましい人間性を見る。
人は、圧迫や耐えがたい重圧が加えられると破壊されるが、それを仲間とともに連帯して活き抜く力を形成することも出来る。
気の遠くなるが、着実に積み重ねた力でいつか圧迫や耐えがたい重圧を跳ね返すという人間性。
今、このことが封印されている。
手話を学ぶということ、手話の中にその歴史が籠められているということ一つをとってみても。