(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて
手話通訳とはなにか、ということがあまりにも現実から遊離して理解されがちな現代に、聞こえない人々の証言に寄せて長崎のみなさんは、手話通訳とは何かを真剣に考えるべきと警鐘の乱打を打ち鳴らしていると私は読む。
仰いだ空に浮かぶ不気味な火の玉と雲
引き裂かれた家族
8月9日原爆投下の瞬間。
東メイ子さんは、畳の下敷きになる。
畳の下敷きになって仰いだ空に浮かぶ不気味な火の玉と雲。
震えながらも妹、兄、弟と寄り添う3人に飛び込んで来たのは洗濯にいっていた母と妹の悲惨な姿だった。
必死に逃げる母と子。
山火事に降る黒い雨の中を突っ切る東メイ子さんたち。
異臭漂う防空壕での3日間。
空腹、暑さ、襲いかかるハエと蚊。
母の身体には早くもウジが湧き、弟と妹は火傷で伏せる。
畝刈への避難。
母の死。
相次いで二人の妹も死。
生き残った東メイ子と兄と弟は、バラバラに親類の家に預けられる。
引き裂かれた運命と
それを言いたくても言えなかった苦悩
急変する事態とたとえようにない悲しみが東メイ子さんを襲いかかるが、彼女の証言を生き残った兄さんと弟さんが補足している。
2ページばかりの文章に弟さんや兄さんの言いようのない深い哀しみと、東メイ子さんとの引き裂かれた運命とそれを言いたくても言えなかった苦悩が伝わる。
紙面を借りて、兄さんと弟さんの証言協力に厚い感謝を捧げたい。
東メイ子さんも辛く苦しい悲しい日々が続くことになったが、それは兄さんも弟さんも同様であり、二人も共に心を痛めていたのである。
被爆後30年間の東メイ子メイ子さんの生活は悲しみと寂しさがたっぷり滲みすぎている。
掃除、天秤棒をかっいでの重労働の畑仕事。
子守。奉公。
赤ちゃんの笑顔があっても辛さと疲れは、赤ちゃんへの憎しみとなる。
両親の愛情は断ち切られ
両親の愛情のもとにそだつ
子どもたちを育てなければならない
古来、日本で歌われてきた子守唄には、赤ん坊が泣きやまなかったら焼き殺すよ、という多くの残酷性を含んだ子守唄が多い。
その歌は、子守をする女の子たちのあまりにも悲惨な生活の反映であると読み解かれている。
東メイ子さんもそんな気持であったのだろう。
自分たちにも注がれる両親の愛情は断ち切られ、両親の愛情のもとにそだつ子どもたちを育てなければならない対照的な自分の身の上。
何もかもが割り切れない気持になっていたことだろう。
この時期、東メイ子さんは何を支えにして生きてきたのだろうか。
彼女は一言も証言していないだけに私も寡黙になる。
がんばり抜いた兄によって東メイ子さんは、兄と弟という家族の絆を取り戻す。
今まで以上の厳しい仕事。
しかし支え合う兄弟の絆を支えに、働きがいを獲得したと証言する。
孤独を感じてのろうあ協会入会
おしゃべりが愉しい、と証言する
孤独を感じてのろうあ協会入会。
聞こえない友人や社会教育に参加し、「身振り」から「手話」へと変わる中で「おしゃべり」の獲得。
おしゃべりが愉しい、と証言する東メイ子さんは笑顔だらけになっていた。
唯一の心配は健康だけになったときに、原爆は何んだったのかわからないけれど、
「もう いや」と写真の前で言う東メイ子さんの姿が残る。
笑いを取り戻した東メイ子さんの人生は、人間性の回復を現している。
彼女の笑顔だらけの意味を深く感じながら、私はペンを走らせているが、さらにもう一つ文の行間にまだまだ書ききれなかった多くのことがあるように思えてならない。
兄と弟の結婚。
「よかったなあと思う反面、とても羨ましいです。」
と東メイ子さんの率直な表現。でもその言葉の意味は重く深い。
どんな文豪でも表現できないような
淡いタッチで表現し記録している
長崎への原爆投下という悲惨な出来事は、それを投下した者たちへの煮えたぎる怒りではなく、本来は理解し、支え合い協力し合う人々同士への怒り、憎しみとなってしまったようなこと多くある。
だが、その部分を充分理解した上で、どんな文豪でも表現できないような淡いタッチで表現し記録している全通研長崎支部の人々。
文に揺るぎのない人間信頼の思想をみるのだが、それは解っていただけるだろうか。
この文が本となり、出版されて22年も経つ。