(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて
長崎の手話は、京都に伝わる手話と多くの共通点があった。
1960年代以前に手話テキストといわれるものがほとんど存在せず、ろうあ者が自由、闊達に表現されていた手話には多くの地域・ろう学校・地方色があった。
松本ろう学校と長野ろう学校の卒業生
手話表現の違い
長野では大きく分けて松本ろう学校と長野ろう学校の卒業生を中心とした手話表現上の違いがしばしば見受けられた。
京都と大阪でも多くの手話表現が存在した。
大阪を中心とした手話表現
「私たちの手話1」
が初めて創刊されたとき
「私たちの手話1」が初めて創刊されたとき、大阪を中心とした手話表現がイラスト化されたため「姉・妹」「兄・弟」など薬指・小指を立てるか折り曲げるかどうかは、京都と大阪では違いがあった。
このことで、京都のろうあ者から多くの不満や意見が出されたが、今思えば大阪の薬指・小指を立てる手話のほうが手指に負担がかからない。
身体の機能に逆らわない表現であることが解る。
「私たちの手話1」創刊号では大阪の表現が取り入れられている。
ほんの少しの表現の違いであるが、1960年代前後の私の手話経験では、手話で話すだけでおよそその人が生まれ育った地域・ろう学校が推測できたものである。
京都に伝わる手話と
類似点が多い長崎の手話
しかし、長崎で出会ったろうあ者の手話があまりにも京都に伝わる手話と類似点が多いことに驚いたことがある。
何人かの年輩のろうあ者の人と話をしたときに、長崎の○○さん(名前を忘れてしまったのが残念)が、京都に画を学びに行き滞留しそこで学んだ手話を長崎のろうあ者に広めて受け入れられたとのこと。
どおりで、と思った記憶がある。
だが、1960年代に私が京都で教えてもらった長崎という手話は、祈念像を表していた。現在長崎で使われている「長崎」という手話ではなかった。
年配のろうあ者は、終点・岬の手話をしていたが。
表現された手話をことばや文字に
置き換えることの困難さ
このことを避けて手話とは
とさもさも解った言い方
いつの間にか長崎という固有名詞の手話が変化したことは間違いがない。
それと対照的に広島の手話が安芸の宮島の鳥居を表していたのが今思うと不思議に思う。
私の提起は、全通研長崎支部のみんなにそれなりに受け入れられ被爆体験の証言の中にも長崎ことばが取り入れられているところがある。
ろうあ者の表現と口話表現の両方を注視していたことが伺えられてうれしく思う。