(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて
私は、2000年8月上旬、長崎市大浦診療所で入院・治療を受けていた。その時、田崎さんに8月9日の集会に誘われたけれど、どうしても帰京しなければならなかった。
田崎さんの表情たっぷりの手話
翌年も同時期に入院したので今年は、一緒に集会にでられると思ったのに、田崎さんと出会ってもお誘いがなかった。
田崎さんの表情たっぷりの手話に思わず、治療中の苦しみと哀しみと激痛を忘れるほど、ユーモアたっぷりの手話が流れていた。
田崎さんは、転倒を繰り返し怪我をしていたが、硬直した足の筋肉は1年間で和らぎ、転倒しなくなっていた。
このとおり、と足を伸ばしたり、曲げたりしてくれて見せてくれた。
長崎市大浦は、坂の街と行ってもいいくらい。人が一人ようやく歩けるような坂が無数にあり、その坂もとてつもなく急傾斜である。
地獄坂と呼ばれる坂があるぐらいで、歳をとると坂を降りて買い物にも行けない。
小売店の人が、坂を駆け巡り配達している姿を幾度も見たが、坂の上からの絶景に反比例して生活は大変であった。
普通学校に入学できていたが
多くの聞こえない生徒を
苦しめたことになるだけだった
そのひとときが懐かしく思い「原爆を見た聞こえない人々」をもう一度読むことで田崎さんが大浦で生まれたことをあらためて知った。
田崎さんは、57歳の時に被爆体験の証言をしてくれている。
もう30年の時日が経っている。
彼女の証言は、長崎ことばで表されている。
彼女は中耳炎から次第に失聴していったのだろうか、小学校3年生まで大浦小学校に在籍することになる。
全国的に田崎さんのような例は数多くある。
形だけの学校在籍。
古くから普通学校に入学できていたが、多くの聞こえない生徒を苦しめたことになるだけだった。
彼女は、いじめにあい10日程も小学校に行っていないと言う。
哀しみの中の在宅生活。
幼き子どもの田崎さんにとって学校は、次第に遠ざかるだけだった。
失意の内から
楽しさが見えてきたのに14歳の時に
大浦小学校と上野町の盲唖学校。
距離はなく、長崎県全体から考えても極めて近い場所なのに、聞こえない子どものための学校であることすら孤独に生きてきた。
田崎さんの家族も盲唖学校があった事も知らなかった閉ざされた時代。
それまた田崎さんの生きた時代を映し出している。
10歳にしてのもう一度、盲唖学校の入学式。
そして新一年生。
田崎さんの胸に不安は限りなく増大していた。
母ちゃんの手に必死にしがみつく、田崎さんの姿が目に映る。
11歳で、友だちと通学。
失意の内から楽しさが見えてきたのに14歳の時に、母ちゃんが死ぬ。
田崎さんにとってかけがいのない大切な学校が、ここから引き裂かれたことになる。
この無念な時代。
私たちは、決して忘れてはならないのである。