手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

親と子どもの夢が激しく揺れ動く15歳

   

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて


 木戸喜久次さんは81歳で証言。もう30年も前のことになる。

 

 1歳半という人間の発達の新しい力が形成されるときに聞こえなくなり古物商を営む父に可愛がられたとのこと。

 

     みな優しかった

 

 耳が聞こえないが故に「家の代を弟に継がせる」という話をはねつけたお父さんの話。

 

 時代の風圧を跳ね返す凛々しさを見て木戸さんは育ったのだろうか。
 
 冬、ろう学校に駆けつけ弟の弁当を少しでも暖かくしておこうという姉さんの行為は、今日の物が溢れた時代では想像も出来ないことだが、姉弟のほのぼのとしたあたたかい心の交流を感じさせてくれる。

 

 みな優しかった。

 

と言いきる木戸さん。

 

 子どもの頃の木戸さんのすべてをこの言葉で言い表しているのではないだろうか。

 

 木戸さん8歳。

 

 物には名前があること。

 

 9・10歳は文字。

 

 12歳から盲亜学校の和裁のコースを選択。

 

わり算かけ算の勉強が難しくなったと証言している。

 

      小銭を握りしめて通った活動写真
          はらはらどきどきしながら

 

 紅白饅頭がもらえる日のわくわくした気持ちとあの味のうまさ。

 

 小銭を握りしめて通った活動写真(映画)。

 

 悪役に立ち向かう正義の味方の剣さばきにはらはらどきどきしながら、お菓子をほうばった。

 

 活動写真を見た帰り、友人とチャンバラごっこをして、正義の味方になったり、悪漢になったり、剣で切られたり、切ったりしながら中島川あたりで走り回っただろう幼き頃の木戸さん。

 

 小銭を握りしめて走っていった、と証言する「握りしめた手」の中に木戸さんの少年時代が入っていた。のに、それを解き放つように言われたのだから木戸が暴れたのは無理もないことだったろう。

 

     民主主義の新たな動きをはじめていく  大正10年頃

 

 胸ふくらむ青年期の真っ盛りの15歳に一挙に「弟子入り」という現実社会が飛び込んできた。

 

 子の将来を思う親と子どもの夢が激しく揺れ動く。

 

 親もいたたまれなくなり沈黙し、ふてくされた木戸さん。

 

 この3日間は親子ともにみな優しかった時間が去り永い3日間になった。

 

  15歳を境にして、一挙に大人の世界に飛び込まさせられる現実社会。

 

 聞こえない子どもだからもっと多くのことを知るために引き続き学校の教育をうけさせて……とならなかった大正10年頃。

 

 米騒動などをきっかけに日本は民主主義の新たな動きをはじめていくことになる。

 

 

いじめた聞こえない姉妹に対する忸怩たる思いを抱いて生きてきた聞こえる人々 素直な悔しい気持に対して隠すべき心は何もなかった

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  五十数年前の過去をわびる元いじめっ子の素直な気持ちへ(4)
(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

   わびた人の五十数年もまた

辛く悲しいことで満たされていたのでは
 

 ろうあ者をいじめ抜いた児童期をわびた人の五十数年もまた辛く悲しいことで満たされていたのではないだろうか。

 

 そういう経験を経ての詫びは哀しいことであるが、また、人間はどんなに歳をとっても予断や偏見の柵(しがらみ)から逃れられることを教えてくれている。

 

 とてもとても大切にしなければならないことではないだろうか。

 

   姉妹の素直な悔しい気持に対して

   隠すべき心は何もなかった

 

 戦前のあの軍国主義下での障害者に対する統制は想像を絶するものであった。

 

 そこにまた人類がかって経験をしたことのない想像を絶する原爆投下が加わり長崎の障害者は想像を超えた生き方で生き抜いてきた。

 

 そのことを目の当たりにしながら、小学校時代、いじめた聞こえない姉妹に対する忸怩たる思いを抱いて、生きてきた聞こえる人々。

 

 姉妹の素直な悔しい気持に対して、隠すべき心は何もなかったことだろう。
 
 人は、五十数年たって過去のことを詫び、理解し合える。

 

 このことをツギノさんと芳江さんの証言はまた明快に述べているのである。

 

 この文を何度読んでも私は感動する。

 

   ツギノさんの表情は

理解し合えたことの満足で満ちあふれ
    元いじめっ子は

過去の自分に対して心から反省し

 お互い人として共に協力して

   生きてゆこうと心に誓ったのでは

 

 喜びも悲しみも平和の中へと訴えるツギノさんと芳江さんの結びの言葉。

 

 世界中の人々へ伝え続けたいものだ。

 

 聞こえない姉妹と近所のいじめっ子の話。

 

 私の理解に対して、センチメンタルな捉え方だという人がいるかも知れない。でも、そうだろうか。

 

 「悪かった」と謝る元いじめっ子との話しの時、ツギノさんの表情は理解し合えたことの満足で満ちあふれていたように思えてならないし、元いじめっ子は過去の自分に対して心から反省し、お互い人として共に協力して生きてゆこうと心に誓ったのではないかと思えてならない。 

 

インテグレーション メインストリーミン アメリカの白人と黒人の分離教育から分離を解消するためにつくりだされてきた教育の方法をろう教育に導入

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   五十数年前の過去をわびる元いじめっ子の素直な気持ちへ(3)
(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

   白人と黒人の分離教育から分離を解消するためにつくりだされてきた教育の方法
     インテグレーション(integration)
 メインストリーミン(Mainstreaming)
  日本では様々に解釈され評価されているが、教育のおけるインテグレーション(integration)もメインストリーミング(Mainstreaming)ももともとアメリカの白人と黒人の分離教育などから分離を解消するためにつくりだされてきた教育の方法だろう。

 

 「教育で、分離したことなどを有機的に統合し指導する」「障害をもつ児童を通常の学級で一般の児童とともに教育する」

 

 障害児を主流の健常者児童と同じ学校生活の中に」「互いに区別することなく社会生活を共にさせよう」

 

という前提に差異があり、その差異を解消しようという試みだった。

 

 この試みということ自体が人間としての平等を前提にしていないのではないかと思える。

 

   名称に改め教育における
「新鮮さ」を描き出すようにしてきている

 

 1960年代に文部省(当時)はインテグレーション(integration)を打ち出し、1980年代には、メインストリーミング(Mainstreaming)。そして1990年代には、
インクルージョン(inclusion)を障害児教育に導入してきた。

 

 そして、特殊教育という言葉を特別支援教育という名称に改め教育における「新鮮さ」を描き出すようにしてきている。

 

 異質なものを何らかな方法で

「統合」「包括」するなどの考え方

 

  インテグレーション(integration)、メインストリーミング(Mainstreaming)、インクルージョン(inclusion)に共通するのは、異質なものを何らかな方法で「統合」「包括」するなどの考え方だろう。

 

 なぜこれらの考えが日本では、導入されてきたのかを充分考察しないことには、人間としての平等な社会が過ごせないように思える。

 

 ハンナ・アーレントの「強制された分離撤廃は、強制された分離と同じように望ましくないと言う意見を読んだことがあるが、わたしはこの意見はまったく正しいと思う。」ということに今深い考察を展開している。

 

 なぜなら、インテグレーション(integration)、メインストリーミング(Mainstreaming)、インクルージョン(inclusion)に共通するのは、異質なものを何らかな方法で「統合」「包括」するなどの考え方と並行して障害児学校が統廃合されている現実を見るから。

 

  「それは日本手話でない」

 「日本語対応手話だ」

 「日本語対応手話が出来ない」

 「新しい手話を使っていない」など乱射
 
 また「自分の子供に平等な教育機会を与えたいのであれば、機会の均等を確保するのであれば、わたしは黒人の子供たちの学校を改善するために闘うべきだろうし、成績が低くて白人の子供たちのための学校ではうけいれなくなっている黒人の子供たちのためには、特別なクラスを設置することを要求するべきだろう。」が否定されている現実を見るからである。

 

 「しつけ」「人権」「平等」の名のもとに「理解至上主義」「基本的人権の蹂躙」「平等という名の不平等」が横行しているとも考えている。

 

 手話の分野で、手話で話していると「それは日本手話でない」「日本語対応手話だ」「日本語対応手話が出来ない」「新しい手話を使っていない」などのことが乱射されることが多いと思うのは私の一面的理解だろか。

手話を学ぼうとする人々や手話の多様性を受けとめコミュニケーションを豊かにしていこうとする人々を排除して、ある特定の手話に「卓越?」した独壇場をつくりあげつつあげているとおもえる。

 

 

   どうでもいいのだ 

  「それは日本語手話でない」

    「日本語対応手話だ」

 

 乱射の影で大切な人間同士のコミュニケーションが成立していると言うことが忘れられていないだろうか。

 

 あえて、書くと、「それは日本語手話でない」「日本語対応手話だ」「日本語対応手話が出来ない」「新しい手話を使っていない」などはどうでもいいのだ。

 

 話が通じ、理解が深まれば、ということが何よりも大切なのだ。

 

 特定の人が「特定の方法」を強要している昨今ではないだろうか。

 手話や手話通訳は、ろうあ者とともに豊かな心の中ではぐくまれてこそコミュニケーションは成立する。

教育と学校のうちに差別の撤廃を持ち込もうと試みは子供たちに責任を転嫁するものであり極めて不公正

 

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   五十数年前の過去をわびる元いじめっ子の素直な気持ちへ(2)
(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 あれから、五十数年の月日が流れて、草木も生えないと言われた長崎に緑の草木が生い茂っていた。もう、寿命ももう少し、という年齢でも忘れられなかった辛く悲しい日々のことをツギノさんは吐露する。

「昔あなたに石を投げられたり、いじめられて悔しかった」と。
と、相手も覚えているらしく、
「悪かった」
と詫びる。

 

  教育と学校のうちに差別の撤廃を持ち込もうと試みることは子供たちに

責任を転嫁するものであり極めて不公正

 

 ハンナ・アーレントはドイツ出身のユダヤ人で、ナチの台頭によりアメリカに亡命するという経緯から、ナチを生んだ全体主義の分析が彼女の一大テーマでした。しかし、ユダヤ人への迫害だけではなく、1957年にアメリカ合衆国アーカンソー州リトルロックで起こった人種差別騒動、公民権運動について述べている。

 

  ハンナ・アーレントの提起は、日本の障害児教育に機械的に導入されてきたインテグレーション(integration)、メインストリーミング(Mainstreaming)、インクルージョン(英: inclusion)のも重大な示唆を与えているし、ツギノさんの証言とも大いに関連があると思う。

 

  ハンナ・アーレントは、

 

  私が黒人であれば、教育と学校のうちに差別の撤廃を持ち込もうと試みることは、成人ではなく子供たちに責任を転嫁するものであり、極めて不公正なものだと感じるだろう。

 現実の問題、それは国の法律の下で平等であり、この平等が差別的な法律によって犯されているのである。平等を犯しているのは、社会的な慣習でも、子供たちを教育する方法でもなく、黒人を差別する法律である。

 

 自分の子供に平等な教育機会を与えたいのであれば、機会の均等を確保するのであれば、わたしは黒人の子供たちの学校を改善するために闘うべきだろうし、成績が低くて白人の子供たちのための学校ではうけいれなくなっている黒人の子供たちのためには、特別なクラスを設置することを要求するべきだろう。

 

 この平等という原則は、アメリカらしい形においても万能でない。自然の身体的な特徴まで平等にすることは出来ないのである。この限界があらわになるのは経済的な条件と教育条件が撤廃されてからのことであるが、その時点では、歴史を学んだ者には周知の危険が姿を現す。

 

  社会のすべての場所に

平等性が浸透すればするほど
    差異はますます強く感じられるように

 

 人々がすべての側面でますます平等になるほど、そして社会のすべての場所に平等性が浸透すればするほど、差異はますます強く感じられるようになり、外見からして自然と他者との異なる人々はますます目立つようになるのである。

 このため社会的にも経済的にも、教育において黒人の平等が実現されるとともに、アメリカ合衆国における有色人種の差別は緩和されるどころか、深刻なものとなるかも知れないのである。

 もちろん必ずそうなるというわけではないが、そうなったとしてもごく自然のことであり、そうならなかったら意外なのである。

 まだこの危険は、現実のものとなってはいないが、近い将来にそうなるはずである。これまで起きたいくつもの出来事はその方向に進んでいることははっきりと示しているのである。

 

 

 強制された分離撤廃は、強制された分離と同じように望ましくないと言う意見を読んだことがあるが、わたしはこの意見はまったく正しいと思う。
 
  

差別を施行する法律が廃止されても
 差別そのものをなくすことはできない

 

 白人と黒人の分離は法律で施行されている差別である。分離を解消するためには、差別を施行している法律を廃止する以外には方法はない。

 

 差別を施行する法律が廃止されても差別そのものをなくすことはできないし、社会に平等を強制することはできない。しかしそれで政治体のうちで平等を強要することはできるし、実際に強要しなければならないのだ。平等とは政治体で初めて生まれるものだからという理由だけではない。

 

 平等が有効なのは政治的な領域だけに限定されるのは明らかだからだ。政治の世界でのみ、わたしたちは誰もが平等なのである。

 

   現在同じことが起きれば
同じような意見が「炎上」するだろうが
 
 このハンナ・アーレントの考えには様々な解釈と圧倒的な反対があるが、日本はしばしばアメリカの教育の模倣や適応を導入してきた経過からもう一度、ハンナ・アーレントの考えを吟味することは大切だと思う。

 

  寿命ももう少し、という年齢でも忘れられなかった辛く悲しいいじめに対して現在同じことが起きれば、同じような意見が「炎上」するだろう。

 

 でも、五十数年の月日を経て、「昔あなたに石を投げられたり、いじめられて悔しかった」「悪かった」という歴史と言葉の重みを見通しているだろうか。

 

五十数年前の過去をわびる元いじめっ子の素直な気持ちへ(1)

 

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて


 聞こえない二人が、一生懸命生きていることを両親が見ていてくれているだろう、と言う気持に代表されるように、ツギノさんも芳江さんもその後の人生を真摯に生き続けていたのである。

 

  感動は微動だにしない証言

 

 ひたむきな心が、最後の文章で大きな展開を拓くことになる。

 

 私が、初めてこの原稿を手にしたときから読んだときから今日まで、その部分の感動は微動だにしない。

 

 人間の持っている可能性に限界はないということを読むたびに教えてくれている。

 

 近所の子供たちと学校が違うため、石を投げられたり、『馬鹿、バカ』と随分はやし立てられて、苦しく悲しかったことを今でも覚えています。

 

 学校から帰る道には、近所の子供たちが遊んでおり、私が通ろうとするといつも通せんぼをされました。

 

 近所の人が通るのを待ち、その人の後ろに隠れ自宅に帰ったことが何度もありました。

 

 雨の日には子供たちがいないので、雨が降ればいいなあと思っていました。

 

     通学時の悲しく辛い思い出

     暗く深い傷跡を心に落として

 

 ツギノさんと芳江さんのろう学校通学時の悲しく辛い思い出。

 

 忘れようとしても忘れられない、子供同士の中傷。

 

 コミニュケーションが成立しなかったことはさらに暗く深い傷跡を心に落としていた。

 

 戦前、ろう学校に通学する生徒は多かれ少なかれツギノさんや芳江さんと同じような目に遭ってきた。

 

 ろう学校での友との語り合いが楽しく愉快であればあるほど、登下校時の同じ年齢の子供たちによる残酷なからかいと嫌がらせ。

 

 それから逃げるために知った人が来るまで待つ。

 

 まさに家の周辺の子供たちが、ツギノさんと芳江さんの味方ではなく、友人でもなかった。

 

 その子供たちは、きっと親や家族からツギノさんや芳江さんのことを聞いていたのだろう。

 

 いい話としてでなく。

 

 ましてや二人は姉妹で耳が聞こえなかった。

 

 偏見は偏見を呼び、ひろがりそれは虐げられた人々の中で蠢き続けていたことだろう。

 

  闇に閉ざす世界に引きずる人々も

 また闇の中の地獄に引きずり込まれて

 

 ツギノさんや芳江さんは、近所の子供たちのことを親に言っていただろうか。

 

 近所の人が来るのを待って、隠れるようにして家に帰る二人の姉妹のことは、親はもちろん地域の人々も知っていただろう。

 

 やむことのなかった二人の姉妹へのからかい。

 

 二人を闇に閉ざす世界に引きずる人々もまた闇の中の地獄に引きずり込まれてしまう。

 

 原子爆弾の炸裂による大量虐殺からわずかな人々が生き残った。

 

 二人の聞こえない姉妹をいじめた近所の子供も60歳を過ぎていた。

   

単純化できない

「悪かった」と詫びる深い意味

 

 あれから、五十数年の月日が流れて、草木も生えないと言われた長崎に緑の草木が生い茂っていた。

 

 もう、寿命ももう少し、という年齢でも忘れられなかった辛く悲しい日々のことをツギノさんは吐露する。

 

「昔あなたに石を投げられたり、いじめられて悔しかった」と。

 

と、相手も覚えているらしく、

 

「悪かった」

 

と詫びる。

 

   過去を封印し自らの非を隠し続ける人が
    多い中でなんと清々しい言葉

 

  私は、このことの意味を深くかみしめて以下のようにに書いてきた。

 

 聞こえなくても、負けないで生きていることを言ったツギノさんの言葉に、いじめっ子だった悪ガキの面影もない老人の心にどのような思いが去来したのだろうか。

 

 私には、いじめられても負けないで生きたツギノさんの人生への限りない賛歌が聞こえると同時に、悪かった、と五十数年前の過去を詫びる元いじめっ子への素直な気持ちへ賞賛を贈る。

 

 すんだこと昔のこととすまして、過去を封印し自らの非を隠し続ける人が多い中で、なんと清々しい言葉なんだろうか。


  最近さらにそのことをもっと深く考えるべきだというハンナ・アレントの文章に出会った。

 

   「昔あなたに石を投げられたり、いじめられて悔しかった」

    「悪かった」

 

このことを本当に理解していたのだろうかと。

 

身体のすべてで表現する 地獄から逃げようとする人々の生きる、生き延びる本能

 

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて


 二人の姉妹徳永ツギノさん63歳、山崎芳江さん59歳の時、被爆体験が30年以上も前に証言た。

 

 二人の聞こえない4歳違いの姉妹が育ち、被爆し、そして現在までがそれぞれに語られながら、想いが、ひとつになる。

 

      いじめられた苦しく悲しい事実を背に
  盲唖学校中学部の2年まで進学 

 

 ツギノさんに教育をうけさせたいという親は、転居する。

 

 近所の子どもにいじめられた苦しく悲しい事実を背に、ツギノさんは盲唖学校中学部の2年まで進学するが病弱で中退し、和裁の住み込みで働く。

 

 芳江さんも、盲唖学校に入学し、雨の日を待ち焦がれるほど近所の子どものいじめにあい、中学部4年で卒業し家業を手伝う。

 

 父、兄の兵役。

 

 姉の満州行きという戦時下の生活。

 三人の姉妹は、母との四人暮らしを続ける。

 

    地獄から逃げようとする人々

の生きる 生き延びる本能

 

 8月9日。

 芳江さんは母と近所の人と薪拾い。

 

 三人は、背負った薪ごとはね飛ばされて、その後防空壕に避難。

 

 明るい日射しが突然黒く遮られた外を垣間見ながら耐え、外にでた芳江さんの見たものは……。 

 

 次々と倒れる人々。

 

 人間の姿を留めない姿。

 

 強烈な臭い。

 

 ひたすらその地獄から逃げようとする人々の生きる、生き延びる本能が芳江さんの脳裏に渦巻き続けていたのだろう。

 

   探り当てた    命を支えた防空壕

 

 命を支えた防空壕跡の写真が「原爆を見た聞こえない人々」の本に掲載されているが、確かめ確かめ記憶をたどって全通研長崎支部の人々と共にその場所を探り当てたことが、ここでも窺うことが出来る。

 

 家にひとりだけ残された昼食の準備をしていたツギノさん。その準備していた昼食の献立をありありと記憶している。

 

 地響き。

 傾いた家。

 

 木戸から見えた灰色に混ざる黄色い雲。

 倒れた柱時計。

 

 紙が舞い布団が飛び、煮炊きものは真っ黒な埃が被さる。

 

 それでも事態がわからず家の片付けをはじめたツギノさん。

 

 逃げる人々の姿を訝しがって母と妹を捜しに出かける。

 

 聞こえない条件の中でことの事態が一層理解出来なくされていたことを淡々と見ていたツギノさん。

 

 が、ツギノさんが見たのは衝撃的なショックで呆然とし続ける芳江さんだった。

 

 芳江さんは言いようもないショックを受け1週間何も食べることが出来なかったのである。

 

    聞こえないが故に

 看病できなかったことを悔やみ続け

 

 隣の家の息子さんが被爆して死ぬ様子。

 

 被爆した人々の火葬。焼けこげる死体の様子。

 

 すべてが見たまま身体すべてでリアルに語られ、それは消せない記憶として残って戦後を迎えていく。

 

 ツギノさんは戦後、夫を労働災害でなくし、土木作業の仕事で子どもを育てる。

 

 芳江さんもツギノさんと同様の仕事につくが、職場の人たちとの折り合いが悪かったようである。

 

 お母さんは、戦後29年して白血病で死ぬ。

 

 その後、お父さんもお母さんを追うがごとく死んでいく。

 

 聞こえないが故に看病できなかったことを悔やみ続ける。

 

 被爆以降も二人の哀しみは続いた。

 

 が、娘さんたちも協力し、励まし支え合ったこともよくわかる。

 

原爆は何んだったのかわからないけれど、「もう いや」と

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特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 手話通訳とはなにか、ということがあまりにも現実から遊離して理解されがちな現代に、聞こえない人々の証言に寄せて長崎のみなさんは、手話通訳とは何かを真剣に考えるべきと警鐘の乱打を打ち鳴らしていると私は読む。

 

    仰いだ空に浮かぶ不気味な火の玉と雲
         引き裂かれた家族

 

 8月9日原爆投下の瞬間。

 

 東メイ子さんは、畳の下敷きになる。

 

 畳の下敷きになって仰いだ空に浮かぶ不気味な火の玉と雲。

 

 震えながらも妹、兄、弟と寄り添う3人に飛び込んで来たのは洗濯にいっていた母と妹の悲惨な姿だった。

 

 必死に逃げる母と子。

 

 山火事に降る黒い雨の中を突っ切る東メイ子さんたち。

 

 異臭漂う防空壕での3日間。

 

 空腹、暑さ、襲いかかるハエと蚊。

 

 母の身体には早くもウジが湧き、弟と妹は火傷で伏せる。

 

 畝刈への避難。

 母の死。

 相次いで二人の妹も死。

 

 生き残った東メイ子と兄と弟は、バラバラに親類の家に預けられる。

 

   引き裂かれた運命と

それを言いたくても言えなかった苦悩

 

 急変する事態とたとえようにない悲しみが東メイ子さんを襲いかかるが、彼女の証言を生き残った兄さんと弟さんが補足している。

 

 2ページばかりの文章に弟さんや兄さんの言いようのない深い哀しみと、東メイ子さんとの引き裂かれた運命とそれを言いたくても言えなかった苦悩が伝わる。

 

 紙面を借りて、兄さんと弟さんの証言協力に厚い感謝を捧げたい。

 

 東メイ子さんも辛く苦しい悲しい日々が続くことになったが、それは兄さんも弟さんも同様であり、二人も共に心を痛めていたのである。

 

 被爆後30年間の東メイ子メイ子さんの生活は悲しみと寂しさがたっぷり滲みすぎている。

 

 掃除、天秤棒をかっいでの重労働の畑仕事。

 

 子守。奉公。

 

 赤ちゃんの笑顔があっても辛さと疲れは、赤ちゃんへの憎しみとなる。

 

   両親の愛情は断ち切られ
 両親の愛情のもとにそだつ

   子どもたちを育てなければならない

 

 古来、日本で歌われてきた子守唄には、赤ん坊が泣きやまなかったら焼き殺すよ、という多くの残酷性を含んだ子守唄が多い。

 

 その歌は、子守をする女の子たちのあまりにも悲惨な生活の反映であると読み解かれている。

 

 東メイ子さんもそんな気持であったのだろう。

 

 自分たちにも注がれる両親の愛情は断ち切られ、両親の愛情のもとにそだつ子どもたちを育てなければならない対照的な自分の身の上。

 

 何もかもが割り切れない気持になっていたことだろう。

 

 この時期、東メイ子さんは何を支えにして生きてきたのだろうか。

 

 彼女は一言も証言していないだけに私も寡黙になる。 

 

 がんばり抜いた兄によって東メイ子さんは、兄と弟という家族の絆を取り戻す。

 

 今まで以上の厳しい仕事。

 

 しかし支え合う兄弟の絆を支えに、働きがいを獲得したと証言する。

 

  孤独を感じてのろうあ協会入会
       おしゃべりが愉しい、と証言する

 

 孤独を感じてのろうあ協会入会。

 

 聞こえない友人や社会教育に参加し、「身振り」から「手話」へと変わる中で「おしゃべり」の獲得。

 

 おしゃべりが愉しい、と証言する東メイ子さんは笑顔だらけになっていた。

 

 唯一の心配は健康だけになったときに、原爆は何んだったのかわからないけれど、

 

「もう いや」と写真の前で言う東メイ子さんの姿が残る。

 

   笑いを取り戻した東メイ子さんの人生は、人間性の回復を現している。

 

 彼女の笑顔だらけの意味を深く感じながら、私はペンを走らせているが、さらにもう一つ文の行間にまだまだ書ききれなかった多くのことがあるように思えてならない。

 

 兄と弟の結婚。

 

 「よかったなあと思う反面、とても羨ましいです。」

と東メイ子さんの率直な表現。でもその言葉の意味は重く深い。

 

    どんな文豪でも表現できないような

  淡いタッチで表現し記録している

 

 長崎への原爆投下という悲惨な出来事は、それを投下した者たちへの煮えたぎる怒りではなく、本来は理解し、支え合い協力し合う人々同士への怒り、憎しみとなってしまったようなこと多くある。

 

 だが、その部分を充分理解した上で、どんな文豪でも表現できないような淡いタッチで表現し記録している全通研長崎支部の人々。

 

 文に揺るぎのない人間信頼の思想をみるのだが、それは解っていただけるだろうか。

 

 

  この文が本となり、出版されて22年も経つ。