五十数年前の過去をわびる元いじめっ子の素直な気持ちへ(4)
(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて
わびた人の五十数年もまた
辛く悲しいことで満たされていたのでは
ろうあ者をいじめ抜いた児童期をわびた人の五十数年もまた辛く悲しいことで満たされていたのではないだろうか。
そういう経験を経ての詫びは哀しいことであるが、また、人間はどんなに歳をとっても予断や偏見の柵(しがらみ)から逃れられることを教えてくれている。
とてもとても大切にしなければならないことではないだろうか。
姉妹の素直な悔しい気持に対して
隠すべき心は何もなかった
戦前のあの軍国主義下での障害者に対する統制は想像を絶するものであった。
そこにまた人類がかって経験をしたことのない想像を絶する原爆投下が加わり長崎の障害者は想像を超えた生き方で生き抜いてきた。
そのことを目の当たりにしながら、小学校時代、いじめた聞こえない姉妹に対する忸怩たる思いを抱いて、生きてきた聞こえる人々。
姉妹の素直な悔しい気持に対して、隠すべき心は何もなかったことだろう。
人は、五十数年たって過去のことを詫び、理解し合える。
このことをツギノさんと芳江さんの証言はまた明快に述べているのである。
この文を何度読んでも私は感動する。
ツギノさんの表情は
理解し合えたことの満足で満ちあふれ
元いじめっ子は
過去の自分に対して心から反省し
お互い人として共に協力して
生きてゆこうと心に誓ったのでは
喜びも悲しみも平和の中へと訴えるツギノさんと芳江さんの結びの言葉。
世界中の人々へ伝え続けたいものだ。
聞こえない姉妹と近所のいじめっ子の話。
私の理解に対して、センチメンタルな捉え方だという人がいるかも知れない。でも、そうだろうか。
「悪かった」と謝る元いじめっ子との話しの時、ツギノさんの表情は理解し合えたことの満足で満ちあふれていたように思えてならないし、元いじめっ子は過去の自分に対して心から反省し、お互い人として共に協力して生きてゆこうと心に誓ったのではないかと思えてならない。