手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろう学校 の教師たちに 強固に 手話を禁止 されてもそれでも営々と 手話 が生徒に伝承され続けてきた「抵抗」と「創造」

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  (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて  

 

一斉に教え込まれる  何もしなくて

よい良い自由生徒たちの

 「抵抗」と「創造」をみていない

 

 ある日、突然、坂口さんは急に教師代行し、手話で授業をしたため生徒の評判がよくなり洋裁科の生徒が増えたと証言する。

 

 ろう学校のなかで教師たちが強固に手話を禁止されても、それでも営々と手話が生徒に伝承され続けてきた「抵抗」と「創造」を忘れてはならない。

 

 教育はともすれば一斉に教えられ、一斉に教え込まれるとされる傾向がある。

 

 それに反発して個別授業やめいめいが自由に学ぶ、何もしなくてよい良い自由、やりたいことをする自由を教育として強調する傾向がある。

 

 だが、坂口さんも証言しているように生徒同士の学びたいという切なるねがいと、仲間集団で教えあう、学びあう、支え合うという教育本来の前提が生き生きと提示されていることを、決して見逃してはならないのである。

 

  口話法ですべてのろうあ者が

    規制されてきたかのように断定

 

 そういう意味では、ろう学校で手話が禁止されたと強固に主張し、ろう学校に手話を導入することを唯一とする人々は、仲間集団で教えあう、学びあう、支え合ってきたろうあ者の人々の「抵抗」と「創造」を観ずにあたかも口話法ですべてのろうあ者が規制されてきたかのように断定しているとも言える。

 

 ろうあ者の人々の「抵抗」と「創造」、表面に目立たない「見えない教育的営み」は、社会の中で聞こえない人々の集団としてのろうあ協会の中に伝承され、発展させられてきた。

 

    「抵抗」と「創造」

表面に目立たない「見えない教育的営み」

 

 私は、坂口さんの証言したたった五行の文字の中に、単に学校教育ではなく人間が育っていく学びのすべてを意味する教育があったということを読みとる。

 

69歳被爆体験を証言 ろう学校の生徒が先生代行 分かる授業、楽しい授業 おもしろおかしく 手話 で 授業 あの時

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて              

 

 坂口さんは69歳の時に被爆体験を証言してくれている。

 

 1歳の時に聞こえなくなり、6歳の時ろう学校に入学。

 

  歯の痛みでで休みがちであったためか、翌年7歳の時再入学。

 

   その人の姓  示唆に富んだ歴史
    手話のひとつの動きで表現

 

 この50年前に坂口さんが「歯を痛めた」ことが、今だに坂口さんの名前の手話表現になっていると言う。

 

 戦前の聞こえない人々のそれぞれの名前は、それぞれの人々の特徴やろう学校での生活におけるある事件を境として名付けられることがしばしばあった。

 

  その人を表す手話表現が、非常に示唆に富んでいることがしばしばある。

 

 手話のひとつの動きでその人の姓が分かる。

 

  しかも、その人の歴史的な手話表現の馴れ初めが表されるというのだから、手話への興味は尽きないものがある。

 

  そして調べてみると人間のあまりにも創造的な証言力に感嘆する事が残るだけになったりする。

 

 手話の大きな特徴である。

 

 聞こえない人々にとって、その手話表現はいやな思い出になることもあったりして最近その手話表現は消えつつある。

 

 でも坂口さんは、50年前に名付けられた自分の手話表現を大切にしていた。

 

    笑顔と笑いが基礎にある手話授業

 

 坂口さんの同級生は20人。

 

 畳の部屋での学習。

 

 小学校低学年は息の出し方、絵カードでの言語訓練を繰り返し。

 

 そして、坂口さんが10歳の頃から文字が教えられたようである。

 

 11歳の時に新校舎に移り、中等部では洋裁の課程を学んだと証言している。

 

 ところがある日、突然、坂口さんは急に教師代行し、手話で授業をしたため生徒の評判がよくなり洋裁科の生徒が増えたという。

 

 興味深い話である。
 
 いつの時代もそうであるが、生徒たちは分かる授業、楽しい授業を求めている。

 

 疑問や新しい知識に生徒たちは敏感で、それが深く理解することが出来れば出来るほど知的感動を心の中に渦巻かせる。

 

 坂口さんは手話を使って授業をすすめたが、きっと坂口は表情をいっぱいにして、おもしろおかしく冗談を含めた手話で授業をしたのではないかと考えられる。

 

 笑顔があふれる授業風景というのは、いつの時代でも子どもたちの気持ちをとらえて放さないのではないかと思える。

 

   十代の教師代行 教える力を発揮

 

 坂口さんのような教師代行は、今の日本では考えられない。

 

 上映された中国の映画「あの子をさがして」には、13歳の女の子が教師代行になり、13歳の女の子が見事に教育者として育っていくようすがリアルに描かれている。

 

 10歳を超えた坂口さんが、下級生に教える力を発揮したことは可能なこととして受け止めるべきである。

 

 ろう教育において、「9歳の壁」と言うことが古くから言われてきたが、それは聞こえない生徒たちが話し言葉から文字を獲得していく過程の中で生じてくる「壁」を意味している面もあった。

 

 私は今ここで、ろう教育を論じるつもりはないが、「9歳の壁」などと論じる以前に、大切なのは上級生が下級生を教えるという、教えあう関係の中から教育が成立している。

 

 

 

その時代に立ち帰って 障害者 の結婚を

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  (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 被爆という人類史上かつてない大量虐殺の中で、生き抜いてきた人々の中で、新しく生きていこうとする息吹を心から信頼しつつも、それまでの柵(しがらみ)から抜けきれない現実がをまざまざと見せつけられる問題。

 

 あの世の両親の心配とは別に46年間、西岡さんも榎園さんもともに夫婦として生き抜いて1991年の証言にまで至った。

 

   同じ墓に入ってあの世でも

 夫婦として ともに過ごしていきたい

 

 西岡さんの顔が見えなくなって不安だ、同じ墓に入ってあの世でも夫婦として、ともに過ごしていきたい、という榎園さんの言葉。

 

  現代の日本では信じられないような事態がかってあった。

 

 今の若い世代に西岡さんと榎園さんの話をしても、単なる「同棲」の話としてしか受け止めないかもしれない。

 

 が、婚姻届を出す、結婚する夫婦である。

 

 成人になれば誰でも権利として行使できることが、戦後の日本国憲法下においてすら出来なかった。

 

 出来切れなかったという背景を充分理解する努力を怠ってはならないだろう。

 

       ひとつ一つの証言はあまりにも深い

 

 榎園さんと西岡さんの二人の証言が、なぜひとつの章の中でまとめ上げられているのかが、改めて理解できた気がする。

 

 全通研長崎支部のみなさんの気配りであろうか、

 

 西岡さん榎園さんの希望であったからであろうか、

 

 ひとつの章にまとめ上げられているこの文章に戦後の苦々しい時代を生き抜いてきた二人、

 

 また二人を支えてきた両親や家族の人々に対する心からの尊厳の気持ちが籠められていると思う。

 

 榎園さんの証言を読んでから、再び西岡さんの証言を読むと二人が言えそうにもなかった証言が時空に浮かび上がる。

 

 繰り返し、繰り返し振り返りながら読んでみると、重厚な歴史を生き抜いてきた人々のひとつ一つの証言はあまりにも深すぎる。

 

あの世まで婚姻届を持っていってしまった親の気持ち

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特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 榎園和子さんは、67歳の時に被爆体験を証言してくれています。

 

  仄に見える

 

 生まれてすぐに聞こえなくなり、弱視に。左目を頼りに生きてこられたことを率直に語ってくれた。

 

 8歳の時にろう学校に入学。

 

 中学部では和裁を学習。

 

 9人の友人を中心にろう学校に通っていた楽しい時代のことが語られています。

 

 榎園さん、39歳の時にろう学校中学部を卒業。

 

 両親にかわいがられ育つが、戦争のため佐賀県疎開

 

  長崎に落ちていく   強烈な赤い光

 

 運命のあの日の8月9日。

 

 いつものように恋しい両親のいる長崎方面を見ていた。

 

 強烈な光、赤く光ったものが上空から長崎に落ちていく46年前の光景は、今もありありと記憶している。

 

 ただならぬ事態ばかりか、恐ろしい事態が長崎の街に起きている、それは榎園さんに、はっきりとわかるぐらいのことだった。

 

 戻った長崎の街。

 

 異様な光景。

 

 自宅は残っていた。

 

 お父さんは、原爆の悪い空気を吸ったようだ、と話して2年後に亡くなっていく。

 

 哀しみの涙が乾かないうちに、お母さんも原爆病院に入院。一週間でなくなる。

 

 榎園さんをどこまでも守り続けた二人の両親が亡くなったことは、流れる涙以上の哀しみであったことは間違いない。

 

 お互い一目惚れ 結婚したのに同姓でない

 

 お父さんやお母さんが亡くなるまでの2年間の間に榎園さんにとっては、その後の運命を決める重大なことが生まれてくる。

 

 西岡さんとの結婚。

 

 お互い一目惚れ。

 

 長崎に原爆が投下されて1年後の22歳で榎園さんは結婚。

 

 証言はここにきて、初めて榎園さんが西岡さんと結婚したのに同姓でないことを明らかに。

 

     あの世まで婚姻届を

   持っていってしまった両親

 

 一目惚れ、愛し合う二人。

 

 結婚。

 

 被爆直後の長崎で二人が生きていくのにこれほど力強いことはなかった。

 

 榎園さんのお父さんやお母さんはきっと心からの祝福を送ったに違いない。

 

 だが、お父さんやお母さんには限りない不安を抱いていたこともまた間違いがない事実。

 

入籍。結婚したという証が、榎園さんには残っていない。

 

 いつ彼女が、その事実を知ったのか証言の中では明らかにされていない。

 

 入籍手続きが、お母さんによってなぜされなかったのか一定の想像の域。


 障害者同士。

 

 榎園さんはさらに目が不自由であった。

 

 いつ離婚させられるかもしれないと、考えあぐねた末、両親はあの世まで婚姻届を持っていってしまったようである。

 

まだまだ言えないことがあまりにも多すぎるともとれる証言

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

    84歳の時に被爆体験を証言

 

 西岡林市さんは、84歳の時に被爆体験を証言してくれている。

 

 もう26年余の月日が経ってしまった。

 

 諫早の牛の仲買をする家庭で育った西岡さん。

 

 聾学校に行けず17・8歳の頃に畳職人としての見習いの仕事に就く。

 

 3年間の賃金のないただ働きの見習い。

 

 住み込みの畳屋さんを飛びだして実家へ。

 

 怒る父に母は林さんを心から庇ってくれたのだろう、

 

 私には、文には見えないが、微妙な手話の中にそのような気持ちがあったこと、が見えてくるから不思議だ。

 

 文字に秘められた哀しみの二人暮らし

 

 畑の草むしり、牛に犂を引かせての田の作業。昭和の初めに西岡さんは長崎市内に移り住むことになる。

 

 兄弟たちとともに住んでいるものの、戦争は次第に西岡さんとお母さん二人の生活を余儀なくせざるを得なくなるまでに追いつめる。

 

 西岡さんやお母さんの胸深くに去来したことが述べられていないが、私たちは決して文章にある「母と私の二人きりで暮らし」の意味を字面だけで受け止めてはならないのは言うまでもないだろう。

 

 兄弟は徴兵され、残された西岡さんとお母さんにはあらゆる形の重圧が加えられていた事は充分推定できる。

 

 畳仕事もだんだん少なくなり、西岡さんにとうとう仕事ができなくなってしまう。

 だから西岡さんは、力仕事をするようになったと証言する。

 

 証言に現れた情景を読むことの意味

 

 8月9日。西岡さん38歳。

 

 朝からの町内の穴掘り作業。

 

 強い衝撃。

 

 飛ばされた身体。

 

 下腹部の刺す痛み。

 

 頭を打ち付けてしまう驚き。

 

 見た回りの風景は霧に覆われたように真っ白で何も見えなかったと西岡さんは証言する。

 

 衝撃的な事件に加えて聞こえない西岡さんにとっては周りの情景が見えなくなったことは、恐怖を一層昇降させていったことだろう。

 

 そこに鼻を刺す臭いもあった。

 

     「幽霊のようになった人々」を見る

 

 お母さんのことが心配になって自宅に戻ってみる。

 

 西岡さんの家はつぶれて、煙が上がっている。生木からも煙が出ている。

 

 崩れた壁の下からお母さんを見つけ出し、かすかな息を確かめる西岡さん。

 

 お母さんの身体には無数の竹が突き刺さり、西岡さんはその竹をひとつ一つ抜く。

 

 そして、お母さんを背負い、防空ごうでお母さんを寝かせ、ぼう然となった

 

 西岡さんは、墓地の中で一晩を明かす。

 

 でも、それから西岡さんが見た光景は、まるで「幽霊のようになった人々」だった。

 

 あらゆる恐怖と想像を絶する恐怖が、襲いかかっていたのだ。

 

 ともかく西岡さんは、父や兄とも再会。兄はお母さんを縄でおぶって帰ってきた。

 

 原爆投下2日後に、西岡さんのお母さんはなくなる。

 

 お父さんはその年、お母さんを追うかのようになくなり、西岡さんの戦後がはじまる。

 

    27年間西岡さんは畳職人として働いた

 

 五年の後、西岡さんは再び畳の仕事に就き、結婚する。

 

 それから、27年間西岡さんは畳職人として働いた、と証言。

 

 そして、楽しい思い出は、旅行と買い物と言い切る。

 

 証言した83歳の時に、西岡さんは老人ホームで生活しながら、ゲートボールをしている。それが唯一の楽しみ、と言う。

 

 まだまだ言えないことがあまりにも多すぎるともとれる西岡さんの証言だ、と思うのははたして私の憶測しすぎなのだろうか。        

 

 

闇を消そうとする薄暗い光の中の 手話 会話

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特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
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  暗闇にぼんやり映る手話

 

8月9日。

 

 耳から血を流して帰ってきた夫。

 

 職場のの仲間のろうあ者も無事だった、と語り合ったであろう手話は、いつもの喜びに満ちた動きはしなかっただろう。

 

 戦争下、非常事態、灯火管制という薄暗い、暗闇。

 

 夕餉の終わったわずかな時間に目を凝らして見つめ合う手話での会話。

 

 生と死、閉ざされた現実などもう考えられも出来ないような非人間的な現実が、これよこれよと燦々と降り注いできていた。

 

  敗戦    母は悲しみ    渡辺さんは安心

 

 ロウソクか、わずかなランプか、ひとつの白熱灯があったのことだろうが、渡辺さん夫婦の手話は、どんな薄暗い光の中でも絶えることはなかったことだろう。

 

 渡辺さんもどうしても原爆投下地点を目で確かめ、現実を受けとめようと思い続けた。

 

 4、5年後経っても浦上に行く。

 

 敗戦は、母の話で知る。

 

 母は、悲しみ。

 

 渡辺さんは、安心した、というこの対照的な思いはあまりにも複雑。

 

 父も母もなくなり、子どもを育てるための必死の買い出し。

 

 近所の人々の援助もありながらも、子どものお乳のための食べ物まで、取り締まられる時代を生き抜いていく。

 

    親と子と断ち切れない愛情が波打って

 

 腕だけが頼りの時代を生きたと言い切る渡辺さん。

 

 和裁の仕事を再開し、母のかっての想いをかみしめることになる。

 

 三人の子どもは働きながら高校を卒業し、着るもの学費は子どもたちが働いて「工面」してくれたと渡辺さんは言うが、そこには親と子と断ち切れない愛情が波打っているように思えてならない。

 

    年金もあるし手話通訳者もいるのでいろいろ助かります

 

 渡辺さん75歳。

 

 夫もなくなり長男と同居。

 

 戦後の苦しい時代を振り返り、「年金もあるし手話通訳者もいるのでいろいろ助かります。」と証言の言葉を結ぶ。

 

 この言葉は、あまりにも重い。

 

 重いが故に、私たちは渡辺さんと同じ思いをする人々が、この地球上からいなくなるようにお互いの取り組みを固めて行かなければならないと思う。

 

 

急変ぶりと人々の姿を克明に証言

  (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

  大反対を受けながら

渡辺さんは 幸せ 不幸せを

             考え結婚の道に

 

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 渡辺初子さん。26歳の時に結婚。            

 

 聞こえない二人の結婚。

 

 大反対を受けながら、渡辺さんは、幸せ、不幸せを考え結婚の道にすすんでいく。

 

 まさにその時、日本は戦時下の最中。

 夫の実家に帰った新婚旅行の1週間。

 

 束の間のひとときは、彼女の喜びの空間で一杯になっていた。

 

 戦争はますます拡大し、空襲警報が聞こえない二人は、結婚に大反対された渡辺さんの実家で暮らすことになる。

 

    歯を食いしばって赤ちゃんのいのちを育て

 

 すべて戦時色で、すべての人々が生き残ることを考え肩寄せ合っていた時期に渡辺さんは長男を出産する。

 

 炭火で沸かした産湯。

 

 おしめを取り込んで防空壕に逃げる日々。

 

 切なく哀しみの多い日々の中で、歯を食いしばって赤ちゃんのいのちを育てようとする渡辺さんの日常が切々と話されていく。

 

     夢と消えた自分たちの生活の場 
         それでも生き抜いて

 

 両親が満身込めて働いたお金で建てた家も強制疎開

 

 何もなくなった実家の跡。

 

 もったいなかったのは、すべての過去の歴史。

 

 夢と消えた自分たちの生活の場。

 

 それでも、渡辺さんたちは、生き抜いていく。

 

 それから1年もたたずに巨大な悲劇が渡辺さんたちを襲う。

 

   「手のひらと人差し指」の手話で

 

 8月9日。

 妹の花嫁衣装を縫を縫っていた渡辺さんは、父親に呼ばれて正覚寺の階段から遠くに浮かぶ落下傘を目撃する。

 

 その様子が、「手のひらと人差し指」の手話で示されている。

 

 それが、「原爆観測用ラジオゾンテ」であったとは、誰もが夢だに考えなかっただろう。

 

 同時刻、松井トクさんも渡辺さんたちが目撃した地点の近くの舟大工町で「高いところに黒くてまるい物」をみんなと一緒に目撃し、しばらくして叩きつけられた衝撃を受けている。

 

 同時刻、目撃。

 

 しばらくしての原爆投下。

 

 その時間の差はどれくらいであったのだろうか。

 

   急変ぶりと人々の姿を克明に証言

 

 松井トクさんも渡辺初子さんもそのほんのわずかな時間に歩いた方向でいのちが救われている。

 

 渡辺さんは、急変ぶりと人々の姿を克明に証言している。

 

 ガラスの刺さった顔。

 

 流れる血。

 

 燃えつきた髪。

 

 焼けこげた服。

 

 熱でねじ曲がった腕。

 

 起きあがることも出来ない人。

 

 浦上方面に見えるどす黒い煙。

 

 28歳の渡辺さんには、黒い煙の舞い上がるもとの人々の日常生活が見えたことだろう。