手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろうあ者 被爆 生活 88歳の証言

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 中島武治さんは、88歳の時に証言してくれている。

 

 こころから感謝したい。

 

     回復しなかった聴力と母の思い

 

 佐賀県で五人兄姉の次男として生まれた中島さん。

 

 4歳の頃、網膜炎にかかり高熱のため失聴。

 

 両親は、中島さんを連れてあらゆる病院を訪ねた。

 

 結局、聴力は回復しなかった。

 

 中島さんは、大きくなってからお母さんが筆談でそのことの経過を話してくれたと説明。

 

 母の思いと中島さんの思いが筆談を通じて交差する時。

 

 中島さんにいつ、どのように言ったらいいのかと悶々と思い惑う日を過ごしながら、胸を痛め続けた中島さんのお母さんの心境と姿。

 

 眼前に浮き上がる。

 

     両親の決断は現在からは予測も出来ない

 

 母の気持ち、が筆談の面々と綴られた文字。

 

 そこには中島さんの母でこそ綴られる言い知れぬ想いが籠められていただろう。

 

 小学校の校長をしていたお父さん。

 

 中島さんのことを想い、家族ぐるみで長崎市鳴滝町へ転居する。

 

 1916年頃。

 

 大正5年という時代。

 

 中島さんの両親の決断は、現在からは予測も出来ない。

 

 奥深い人間の心情を背景にされていたように思える。

 

 いや、私が考える以上に、陰に陽にと様々なしがらみを乗り越えながら、子どもの教育を考えられた両親に心からの尊敬の念を贈りたい。

 

   支え合う人間関係の連鎖は
  哀しみの中でも生き抜く力を伝える

 

 中島さんのお父さんが教育者であったからだ、と単純な理解をしてはならない。

 

 教育者であったから、また逆に受けるしがらみもある。
 
「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)に出てくる聞こえない人々の家族の行動には、心が打たれることがあまりにも多すぎる。

 

 人は、ひとりでは生きられない。

 

 支え合う人間関係の連鎖は、哀しみの中でも生き抜く力を伝える。

 

 中島さんは、10歳で盲唖学校に入学する。

 

   なんとか進学していきたいと考える

                                        独学の英語勉強

 

 小学部1年、口話教育による教育。

 

 2年生、黒板にかかれたものを写す学習。

 

 中学部は、木工を学ぶ。

 

 午前は教科学習、午後木工の学習。

 

 文章はお父さんに教えられて次第に身につけていた。

 

 お兄さんは、大学に進学したので中島さんもなんとか進学していきたいと考えるようになった。

 

 中島さんの耳のことで反対され、中島さんは独学で英語を勉強。

 

 矛盾があってもそれをひたむきに乗り越えようとする青年の中島さんの姿。

 

 さらに中島さんは、先輩たちから手話をは学び、交友関係を広める。

 

 

ひたすら兄への感謝を心に込め異臭が漂う長崎市内を流離う

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  (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

   

   ひたすら兄への感謝を心に込め  

     いのちを救った仕事

 

 異臭が漂う長崎市内で小野村さんは、ひたすら兄への感謝を心に込めたと言う。

 

 長崎に原爆が投下された翌年、小野村さんは27歳。

 

 21歳のヤエさんと結婚する。

 

    聞こえない子供が生まれる

      という反対を押し切っての結婚

 

 聞こえない者同士の結婚は、聞こえない子供が生まれるという反対を押し切っての結婚だった。

 

 結婚の翌年に長男、結婚4年の後に長女、結婚7年後に次男誕生。

 

 3人の子供を育てていくことは大変だったが、結婚に反対したお母さんの援助で子供たちを育てられたという。

 

 お母さんは、小野村さんは36歳のときに亡くなり、それから次第に生活が苦しくなっていったと証言してている。

 

 鼈甲細工の仕事をやめ、日雇いの労働につく。

 

 長崎市内の公園の樹木の整備が主な仕事だった。

 

 小野村さんの手の器用さは、この時大いに役立ったとのこと。

 

         終戦 それはとてもうれしかった

 

 この仕事を32年間続け、現在は、長女の家族と同居して可愛い2人の孫に囲まれた幸せな日々だ、という。

 

 60歳のとき、胃の手術をしたが、それは原爆を投下直後に手に入れた豆が原因しているのではないかと考えたりすると証言している。

 

 終戦

 

 それはとてもうれしかった、と手話で表現する小野村さんの写真が本に掲載されている。

 

 優しさを切り裂いてきた時代が見えてくる

 

 小野村さんの写真は、最後の部分で、笑みが一体こぼれている。

 

 が、逆に写真を遡ってみると小野村さんのすべての人生が見えてくるように思えてならない。

 

 扉表紙の写真。

 

 原爆を直後に仕事場から外に出た時の証言の写真。

 

 熊本に疎開するときの敵の様子の証言の写真。

 

 焼けただれた子供のことを証言する写真。

 

 もう1度見直してみると小野村さんが地獄の苦しみの中から生き抜き、手話通訳者と心から打ち解けて証言するすべてが読み取れるようにおもえる。

 

 またそれは、小野村さんの人生のすべてでもあった。

 

 5枚の写真と小野村さんの証言に小野村さんの優しさとともに優しさを切り裂いてきた時代が見えてくる。

 


                       

叱らざるを得ない社会状況 兄さんが銭湯で叱ったのは 聞こえない 小野村さんへの心からの思いやりであったその時代

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

  

  大声を出したのは
 悲しみと怒りと不平等さと平和の願いが

 

 小野村さんの兄さんが銭湯で大声を出したのは、悲しみと怒りと不平等さと平和の願いが硬くなに包まれた心の中にあったのかもしれないと思って考えてみた。

 

 私の意見に対して、少なくない人々はお兄さんが聞こえないよう小野村さんに対して理解がなかった、人間扱いしていなかったと言い切るかもしれない。

 

 でも、お兄さんはなぜ家で小野村さんを激しくしからなかったのかと言うことを考えてほしい。

 

 小野村さんが、みんな戦地で死にものぐるいで頑張っているのに!という言葉を口話で読み取り記憶しているクッキリした過去。

 

 あえて、みんながいる銭湯で叱ったことが、お兄さんの小野村さんへの思いやりでもあった、と私は考えるようになってきた。

 

   考えられないような

    深い複雑な愛情を含む気持ち

 

 悲しみながら、あえて言わざるを得ない、言うことが小野村さんが生きていくすべになる、小野村さんがぎりぎりの生活の中でも、人からそれなりに理解されるようにと。

 

 今の私たちには考えられないような深い複雑な愛情を含む気持ちの中でお兄さんは小野村さんを叱ったのではないだろう。

 

     もう一度その時代背景を

      熟知したうえで考えないと

 

 私は、長崎の被爆体験の証言や家族の人々の動きまわりの人々の動き、それらをもう1度総合的に考え見つめ直してみると、言った言わなかった、言ってことの意味、行動したことの意味などなどを単純に断定できないのではないか、してはいけない、と思う気持ちが日に日に強まってきていた。

 

 聞こえない人々とその回りの人々の様子をもう一度その時代背景を熟知したうえで考えないと、私たちは言うに言えない時代、聞こえていてもものを言えない時代に生きた人々の心情を誤ってとらえてしまうのではないか。


 銭湯での声は、風呂屋全体に広がる。

 

 男風呂であろうと女風呂であろうとすべての人々に小野村さんへの怒鳴り声は聞こえたことだろう。

 

    残響の中に消えた声と残った想い

 

 銭湯の中で声を出すと独特の響きを持ち声は反響する。

 

 その残響の中にお兄さんの声は消えていった。
 
 地域の人々の中で、お兄さんが聞こえない弟を叱っていたことが、きっと話題になったことだろう。

 

 あそこまで言わなくても、とか。

 

    なんと残酷でと重々しい  徴兵検査

 

 徴兵検査。

 

 兵役免除。

 

 この言葉の意味はなんと残酷でと重々しいものだろうか。

 

 男にとって生命の分岐点でさえあったとも言うべき、徴兵検査。

 

 聞こえないが故に戦地に行けない小野村さん。

 

 そのようなことがだれでも分かるのに、それを肯定できない軍国主義の暗黒の重圧。

 

 回りの人々はそのことを理解をしていても口に出して言うことはできなかったのかもしれない。

 

 いや、そうに違いない。

 

  叱る度につのる哀しみと想い

 

 兄さんも回りの人々も小野村さんのことを分かりながらも、大声を出して小野村さんを叱る。

 

 叱らざるを得ない、社会状況。

 

 兄さんが、小野村さんを銭湯で叱ったのは、聞こえない小野村さんへの心からの思いやりであったということは、その時代の人でないと理解の出来ない事かも知れない。

 

 でも、あえて、私はここで小野村さんの証言からそのことを読みとったと言いたい。

 

 兄さんが銭湯で出した大声。

 

 悲しみと怒りと不平等さと平和の願いが硬くなに包まれた心の中にあった、と思う。

 

    理解がなかった
 人間扱いしていなかったと

     言い切るひとびとへ

 

 私の意見に対して、少なくない人々はお兄さんが聞こえないよう小野村さんに対して理解がなかった、人間扱いしていなかったと言い切るかもしれない。

 

 でも、お兄さんは、なぜ家で小野村さんを激しくしからなかった、のかということを考えてほしい。

 

 あえて、みんながいる銭湯で叱ったことが、お兄さんの思いやりでもあった、と私は考える。

 

みんな戦地で死にものぐるいで頑張っているのに と怒鳴る理由

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  (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて

 

 木工の仕事ではなく、鼈甲の仕事をつかざるを得なかった小野村さん。

 

 家族と一緒に、鼈甲細工の仕事を10年間続ける。

 

  長崎の鼈甲細工は、非常に有名で繊細な技術が要求された。

 

鼈甲細工は、平和時の産業。

 

戦争はその仕事を奪う。

 

1943年徴兵検査の通知 徴兵検査 その時

 

 1943年 徴兵検査の通知。

 

 兄の付き添い。

 

 兵役免除。

 

 この日のことはあまり詳しく証言されていないが、すでに述べてきたように付き添いのお兄さんにとっても小野村さんにとっても屈辱的な日であったことは間違いがない。

 

 小野村さんは多くの捕虜と共に三菱造船に働きに行くことになる。

 危険な造船作業。

 

 小野村さんは恐怖に震えてその仕事を引き上げる。

 

  鼈甲細工の仕事を再開。

 

   みんな戦地で

  死にものぐるいで頑張っているのに

 

 このこと時期は曖昧だが小野村さんは、次のようなことを証言していた。

 

 「兄からは『みんな戦地で死にものぐるいで頑張っているのに』と、皆がいる銭湯でひどく怒鳴られました。」

 

 この文章を当初読んだときになんとなくよくあることだと思っていた。

 

 徴兵検査とその後のことは、戦争体験を聞き、記録する仕事を京都でもしていたからである。

 

 ところが、本の編集をして、校正して、出版して以降何度も読むうちに何かのわだかまりを感じた。

 

   なぜ、みんながいる

 一番声が響きやすい銭湯だったのか

 

 それは、小野村さんの兄さんが「皆がいる銭湯でひどく怒鳴」ったという部分である。

 

 なぜ、みんながいる、しかも一番声が響きやすい銭湯だったのか。

 

 近所の人々すべてに、徴兵検査が不合格だったことが知られてしまう。それは、兄さんの腹立たしさが堪えきれなくなって発した言葉だったのだろうか、と。

 

 長崎に連絡してその時の兄さんの表情を小野村さんに尋ねてもらった。怒鳴っていることは解ったが、表情はいつもの兄さんの表情だったとの返事が届いた。

 

    聞こえないが故に戦地に行けない
      それを肯定できない軍国主義の重圧
 
 聞こえないが故に戦地に行けない小野村さん。

 

 そのようなことがだれでも解るのに、それを肯定できない軍国主義の重圧。

 

 回りの人々は理解をしていても口に出して言うことはできなかったのかもしれない。

 

 いや、そうに違いない。

 

 兄さんも回りの人々も小野村さんのことを分かりながらも、大声を出して小野村さんを叱る、叱らざるを得ない、社会状況。

 

民間治療・民間信仰 手話を使うと竹のムチがふりを落とされたことから得たもの

 

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて    

 

  竹で耳の穴に吹き込むを治療

 

 小野村さんは、65歳の時に被爆体験を証言してくれている。

 

 6人兄姉の4男として大浦町の、鼈甲細工を家業とする家に生まれた。

 

 小野村さんのお父さんは、49歳の若さでなくなり、長男が大黒柱となって家をささえた。

 

 お父さんの死後、小野村さんは脳膜炎を患い高熱のため耳が聞こえなくなった。

 

 5歳まで当時高価だったラジオの音楽をなんとなく聞こえていたことが次第に薄れ8歳のとき聞こえなくなる。

 

 母は、小野村さんを連れて、六地蔵へお参り。竹で耳の穴に吹き込むを治療をした。

 

 民間治療・民間信仰。

 

 それに頼る傾向は過去も現在も同じようにハンディーを負った人々の上に広がっている。

 

      軍隊さながらの体罰の横行      手話を使うと竹のムチがふりを落とされた

 

 小野村さん11歳。

 

 ろう学校に入学。

 

 小学部から仮校舎で学び、その後上野町の新校舎に移り中学部時代を過ごす。

 

 8名の同級生が、卒業したのは2人だったという。

 

 ろう学校での勉強は発語訓練が厳しく行われていた。

 

 母と子の話の中で口話を覚えていく。

 

 ろう学校では手話が禁止。

 

 手話を使うと竹のムチがふりを落とされたという。

 

 手話を使うことは体罰を受けることだった。

 

 イスを持ち上げて手を水平にしたままイスを持ち続ける。

 

 軍隊さながらの体罰が、ろう学校でも行われていたのである。
 
   手話教育から口話教育への転換に対して

 きわめて批判的な先生の励まし

 

 中学部1年。小野村さんは木工科を専攻する。

 

 戦時色が強くなったろう学校の授業、午前は教科、午後は職業科で学びつつ次第に畑仕事が増えていく。

 

 ろう学校時代、小野村さんにはあることが強い印象として残っている。

 

 井上先生の手話教育。

 

 手話教育から、口話教育への転換に対してきわめて批判的であり、小野村さんたちのコミュニケーションに深い理解を示したこと。

 

 それは小野村さんたちにとってこのうえもない励ましだったのである。

 

  子どもたちにとってマッチした

 教育方法 教育内容が
  真剣に教師の中で考えられていた

 

 戦争前は、教師は自由に教育のことを語り合い、自由に教育を行えなかった面は強い。

 

 しかし、その中でも子どもたちにとってマッチした教育方法、教育内容が真剣に教師の中で考えられていたことが小野村さんの証言からも推察できる。

 

 小野村さん22歳でろう学校を卒業。

 

 12年間学んだろう学校での生活は、何度も繰り返すことになるが聞こえない人々にとっては極めて重要な影響と生きる力を形成していくことになっていた。

 

差別 されてきた 聞こえないもの にとっては戦争が終わってよかった

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(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて 

 

   差別されてきた
聞こえないものにとっては

        戦争が終わってよかった

 

 母から聞いた敗戦。

 

 非国民として差別されてきた聞こえないものにとっては、戦争が終わってよかったときっぱり言いきる坂口さん。

 

 悲しくはない、と言う深層には平和の喜びがある。

 

 8月末。島原でみんなと再会。

 

 そして、28歳で結婚。

 

 3人の子どもを聞こえない夫婦で育てるという大変な時期を、坂口さんは淡々と証言。

 

 30余年続けた紳士服の仕事を誇りに思い、両親に感謝していると証言する。     

 

  長崎県ろうあ福祉会」の誕生 
 ろうあ者問題の解決は自分たちの手で

 

  戦後のようすを坂口さんは生き生きと伝える。

 

 22歳の時にろうあ者の仲間と作った「青ろう会」。

 

 26歳の時に「長崎県ろうあ福祉会」の誕生。

 

 初代会長は、文章が書けるということでろう学校の校長。

 

 しかし、10年後、ろうあ者問題の解決は自分たちの手でとろうあ者が会長をし、その後坂口さんは26年間の63歳までろうあ協会の会長を務めることになる。

 

      ろうあ者の自覚の高まりが成熟して

 

 1988年になくなった山崎さんとともにろうあ福祉協会と手話通訳者の養成に多大な努力を重ねたことを述べる。

 

 そして、自分の子どもがろうあ福祉協会の会長を38歳で引き継ぎ、その子もろうあ福祉協会の青年部長として奮闘していることを語ってくれている。 

 

 戦後、長崎のような動きの中で各地でろうあ協会が結成。再建されて来た。

 

 しかし、坂口さんが述べているように、1960年代頃を境にして、ろうあ者運動は大きく変わる。ろうあ者の自覚の高まりが成熟して。 

 

長崎被曝証言 手話 全身で絶望 と 破壊 と 恐怖の嵐を表現

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   (特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
 佐瀬駿介  全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて 

 

      恐怖の嵐の手話

 

 ろう学校中学校を終えた坂口さんは、住み込みで洋裁店で働く。

 

 足の不自由な仲間とともに寝起きしながら助け合い数年かかるところ五ヶ月で職人になったという。

 

 まさに師匠の仕事を盗み見するという「離れ業の天才」である。

 

 島原の洋服店に変わった坂口さんは主人の出兵で、店を任される。


 運命の8月9日。

 

 坂口さんは汽車に乗って島原から長崎に向かう。

 

 実家で朝食を済ませ10時過ぎに県庁方面に向かおうとする、が、急に先輩に会いたくなり行き先を変える。  

 

 目の前が真っ白。四つんばいになる眼前は白から黄色へと移る。

 

 空壕で赤ん坊を抱いて飛び込んできたろう学校の先輩と出会う。

 

 絶望と破壊と恐怖の嵐の手話。

 

     それまでのすべてを

    無塵の炎に引きずり込んだ

 

 キノコ雲と人々が呼ぶようになった雲を見上げ、ドン山から見た浦上方面。

 

 ただならぬ「空襲」であったことは歴然としていた。

 

 実家も近所も、家族も無事。

 

 でも、坂口さんもまた、ろう学校が心配になり浦上に向かう。

 

 翌日。

 

    がれきの中で

破壊された学び舎を凝視して佇む

 

 日ノ出町から山づたいにろう学校に向かった坂口さん。

 

 被爆直後の山肌をただひたすら浦上方面に向けて足を運ぶ。

 

 やっとたどり着いたろう学校は、ガラスが飛び、壁が落ち、思い出でいっぱいだった教室は跡形もなかった。

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 がれきの中で凝視して佇む坂口さんに去来した心を私たちはしっかりと受け止めていかねばならない。

 

 ろう学校の生徒が誇りに思ったあの校舎。

 

 すべての想い出も奪い取った惨状。

 

 周りの焼け野が原に見える崩れかけた浦上天主堂

 

 川まで飛んだ聖堂の屋根にあった十字架。

 

 あれほどろうあ者の心を支え、想い出の結晶であったろう学校の建物が破壊され。

 

 ろうあ者のそれまですべてを無塵の炎に引きずり込んだということだった。

 

     思いと消せない平和への願い

 

 そのろう学校跡に、坂口さんたちの思いと消せない平和への願いが、何ら残されていないことは、重ね重ね残念である。

 

 被爆直後の長崎で、家族とともに身の危険も顧みずろう学校の存在を案じたろうあ者の人々の想いは、今後、世に伝わっているのだろうか。