手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

ろう学校 教員免許等をめぐる諸問題 第2回全国手話通訳者会議および通訳者研修会 1969年

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手話を知らない人も

                手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

教育(学芸)大学

ろう学校教員養成課程における手話と問題

 

福島

 

  大阪の関西ビューロ--40名を会員として、3月3日より、火、木の週2回の午後6時半~9時、前後10回。

 

 80%参加した人は15、6名。年令層は50才前後の人から高校生まで参加している。
 会費月100円ぐらい。

 

 大阪教育大学ろう課程  毎週金曜日(6時~9時)手話の講習会をしている。

 

 ところが、大学の先生は、習いに行つたら単位をやらないといわれた。

 

 ろう者の中の青年部の中心者が講師として教えている。 (京都大学を率業し、弁護士になっている。ろう者は、法律にくらくて困つていることが多い)

 

教員養成と特殊教育
 ろう学校教員免許をめぐる諸問題

 

 日本の教員養成専門大学(戦前は師範学校・戦後は学芸大学・教育大学とされたが1966年教育大学に名称変更。

 

 名称変更をめぐって反対があった教員になる道は、教育大学だけでなく総合大学の教育学部や各大学でも教職単位を取得できれば教員免許が取得できた。

 

 ただ、特殊教育としての盲・聾・養護学校などのより専門的な養成課程は教育大学に設置された専攻過程で免許交付がされた。

 

(ただし多くの問題があったが、教員現任研修を受け、一定の単位を取得したものにはろう学校や養護学校免許が与えられた。ただし、障害児学校の教員は各障害児学校免許を有しなくても勤務出来た。ただし、理工系の教員は教員免許取得前に各特殊学校免許を取得出来ることは困難だった。)

 

 特殊学校教育の教育課程は、近畿では大阪教育大学だけであり、各都道府県で専門免許が取得できたわけではない。

 

 ただし、特殊学校教育免許は各都道府県の特殊教育学校で教育をすすめるための必須条件ではなかったが、都道府県教育委員会によって教員採用試験を特殊教育免許取得者のみを限定する場合があった。この免許制度は、現在のと特別支援教育同様、制度上・教員要請上多くの問題があった。

 

社会の中のろうあ者問題を考える 手話 サークルの増加 第2回全国手話通訳者会議および通訳者研修会 1969年

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手話を知らない人も

                  手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 患者とのコミュニケーション問題から
    生まれた手話サークルが

 

向野

 

 日赤の看護婦(高校生)さんが、患者にろう者がおりわからないので、 手話を習いたいという希望からはじまり、昭和38年9月発足。

 

 2.0名<らい。当初より残つている人は3人くらい。その後.新聞やラジオで呼びかけ、現在は80名くらいの会員がいる。

 

 平均20~30名くらい集つている。経費は京都市から年10万円、府から2~3万円、他謝礼金、会費1ヶ月50円で、年間30万円ぐらいになる。

 

 手話学習会(フイルム等を使用して、正確な手話を学ぶ)
 手話通訳者会(手話通訳団、10名ぐらい)
 選挙のとき、身上相談、刑事問題等、手話演劇活動 ろうあ夫婦にできた子供とのつきあい

 

以上がグループの活動内容であるが、 その他(手話)テキストを発行、ろう者のホームヘルパーに対して、講習会を開いた。

 

 看護婦(当時の名称)の患者とのコミュニケーション問題から生まれ、発展してきた手話サークルが広範囲の取り組みとなり、さまざまな諸問題に取り組んでいることの報告である。

 

 すなわち、手話学習は手話を覚えたり、使えるだけで留まることなく社会の中のろうあ者問題として捉え、それぞれの状況に応じた対応策として手話サークルの中での分担と対策が講じられていることが解る。

 

 このことが、後々行政保障と密接な関連を形成する要因となる。

 

手話講習会の講師の限界が

 

伊藤

 

  点訳・手話の講習会を同時に開いている。交流をやっていきたい。豊橋には、ともしび会館があり、ここでやつている。
 年間会費360円としている。

 

丸山

 

 水島さんがやっている 「たつの会」 のことにっいて、 講師自身が限界に来ているのではないかと思われる。

 

「奉仕か」「人権を守るか」 手話通訳や手話サークルのあり方として 第2回全国手話通訳者会議および通訳者研修会 1969年

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手話を知らない人も

               手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

第2回全国手話通訳者会議

    日本各地の状況 1969年

 

手話を学ぶのではなく
ろうあ者の人格や人権を

    守ることを基本として考える

 

木庭(熊本 わかぎ会)

 

  1月から、県の講習会を開き、終つてから積極的にサークルが作られた。会員は10名くらい。

 発足して.平年くらいしかならないので、技術がうまくなくてあまり通じない。

 

 日的は、「ろうあ者の人格、人権を守る」ための手伝いをしたい。

 

 その前に、ろう者の人をよく知るために手話の技術を向上させたい。

 

 講習は、(ろうあ)協会長の小畑先生テキストは県の講習会の,ときに作ったものを使用。

 会費は、100円。

 

 手話サークルの援助金としてライオンズクラブからの10万円は、当時の金額としては高額であったがそれぞれがお金を出し合いながら手話サークルを運営する形態はその後の全国の手話サークルの基本となっていくひとつの模範的運営として記憶されるべきだろう。

 

 さらに手話サークルが、ただ単に手話を学ぶのではなく、ろうあ者の人格や人権を守ることを基本として考える傾向が生まれてきていることも留意する必要がある。

 

 これらの動きに対してその後、手話奉仕員養成という厚生省の方向が打ち出されるが、「奉仕か」「人権を守るか」が手話通訳や手話サークルのあり方としての分岐点になる。

 

手話だけでなくろうあ者の歴史も

 

  野沢

 

  東京心身障害者センターのケース・ワーカーをやっている。

 

 職員200人。昨年の1月から、その人達に対して手話請習会を6ケ月やった。

 

 手話だけでなく、ろう者の歴史なども話していく。毎回、20人~30人は集りました。お金がいるときは、センターからいつでも出してもらえた。

 

 手話はあまり上手にならなかったが、患者さんが来てもまちがうことがなくなった。

 

子どもの心理を知るために手まね講習会

 

上森

 

 サークル活動について、 手まねの構習会を開いた。 子供の心理がわからないので手まねを知りたいと思つた。

 

 平均70名が参加。2っのグル,ープに分け、lつは、テキストを作つての研修、lつは、 健聴者との話し合い(討論)を主にやっていくょうにした。いろいろな間題が提起された。

 

(1)ろう者の刑事問題等。
(2) 学校で手話をやらないので、社会へ出てから困る。

 

 手話学習だけでなく、ろうあ者問題、社会諸制度との関わりなどが手話学習の継続の中で切実と考えられるようになってきていることが解る。

 

 

丸山浩路氏の想いと独特な構想の形成期 第2回全国手話通訳者会議および通訳者研修会1969年

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手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

公務員への手話講習会と指文字などは?

 

丸山(浩路)        

 

  更生指導所勤務
 各福祉事務所において、手話講習会を開催したが講習を受けても、異動で変つてしまう。

 

(1)  公務員の中でも希望者をつのり指導、その人達が各地へ行つたとき手話を広める。

(2) 指文字が最近使われだしてきた。ろう者の状態に応じ、どの程度までやつていけ

る。 

 手話とどのように組み合わせてやっていくか。

 

 ここで特に述べておきたいことは、すでに亡くなられた丸山浩路氏の意見である。

 

  公務員・行政機関の人々が

  手話を学び広げることの重要差を強調

 

 彼は、公務員・行政機関の人々が手話を学び広げることの重要を強調している。

 

 彼の思いと行政とのギャップ、それを乗り越えようとする努力が垣間見れるが、そのことの空虚さを押さえつつ発言していることが解る。

 

 行政のかたくなな壁の中で、公務員の希望者を募り、の部分の中で研修という上からの半ば強要された中での手話拾得ではなく、あくまでも希望者をつのり手話を覚えてもらい、それを核に手話の出来る公務員を増やしていこうとする丸山浩路氏の姿勢は、要求に基ずく手話学習と捉える点でも意義ある提起であった。

 

指文字の導入について
ろうあ者の手話と乖離することの危惧感

 

 さらに指文字の導入についてもろうあ者の状況やろうあ者の学習状況から一定の危惧を提起している。

 

 ここでは言い切ってないが、指文字は容易に使われやすいが、それが多くのろうあ者の手話と乖離することの危惧感や指文字を駆使できる内言語を獲得したろうあ者が優位にたつことへの不安などが綯い交ぜにされている。

 

 丸山浩路氏の想いは、行政組織の中で発揮出来まいというジレンマと共に新しい活路や丸山浩路氏の独特な構想が生み出される発想としてその後一定の影響を与えたので留意しておきたい。

 

ライオンズクラブからの寄付などで

 

坂本

 

 各グループの運営上の費用、又、講習会のテキスト等についてどのようにしているかお聞かせ下さい。

 

笠置

 

  健聴者だけが100円納め、ろうあ者からは原則としてもらわない 希望者からは寄付として受けている。

 

 教会を使つているので会場費、光熱費はいらない。


 ライオンズクラプより,0万円もらったので、手話通訳研究会と分けて使うようになった。

 

 会は楽しくないと続かない.ため楽しいサロンを作つていく。その中から手話を学ぶ。そして、指人形を作ったり・卓球、ハイキングをやりたいという人がでてきたら幸いという考えです。

 

ろうあ者大会などで各地域で手話を学ぶ人々の機会がつくられて 第2回全国手話通訳者会議および通訳者研修会 1969年

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手話を知らない人も

                  手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 以下伊東雋祐氏はもちろん京都のメンバーが発言している内容のほとんどが手話サークルみみづく会手話通訳団会議で論議され、検証されたものであるものとして理解していただきたい。

 

激烈な論議と妥協なき意見交換
  と共通認識を広げる

 

 昼夜を分かたずみみずく会手話通訳団会議は激烈な論議と妥協なき意見交換をおこなって共通認識を広げてきた。

 

 今日では、想像できないであろう。話、学習し、論議尽くした。このみみずく会手話通訳団会議ではその後の手話通訳の基本条件となる諸問題のほとんどが検討されていたと言える。

 

 第2回全国手話通訳者会議
      日本各地の状況 1969年

 

 手話通訳上の悩み・各地域の活動状況(以下、概要を掲載 若干の解説と考察を試みる)

 

  出席者自已紹介
  伊東(京都、教師)、寺山(水戸)、内田(埼玉、元教師)、伊藤(愛知、ともしび会)  今井(愛知、 ともしび会)、長谷(大分、ろう施設職員)、 向野(京都府職員)、 みとめ(熊本、わかぎ会)、古賀(熊本、わかぎ)、藤谷(東京、,教師.)、藤森(東京、教師、.手まねを学ぶ会)、吉森(京都)、坂本(静岡、.国鉄職員)、丸山(神奈川)、西( 東京、こだま会)、木庭(熊本、わかき会) 野沢(東京)、上森(東京、手まねを学ぶ会) 笠置(東京、こだま会)、橋本(島根)、吉本(東京)

 

司会  各地の状況ならびに、サークル結成の動機等について話し合っていただきたい。

 

  ろうあ者大会を前に

       県とろうあ協会が手話講習会

 

木庭

 

  熊本で、ろうあ者大会を開くにあたつて、 熊本県とろうあ協会とで手話請習会が行なわれ、その中から,数入が残つて設立。

 

 現在15名。新会員を中心とした勉強会。

 

 東京の貞広先生の手話を見ていてわからないときもある。各地の交流と手話の統一が

必要と考えられる。

 

手話通訳者会議の継続開催を

 

坂本

 

  静岡では、.通訳者として、個入的な中から,手話を習得している。

 大会だけにこだわらず、年に1回1か2回,このような通訳者会議を開いてもらいたい。

 

アメリカ・カナダの手話奉仕活動から

 

笠置

 

 3年前、 米国・カナダの奉仕活動を見て来た。 講演会のときの飯塚千代子さんがやつている通訳を見て、自分の講演を自分の手でやろうと思ったのが動機。

 

 1昨年の6月、ろうあ者の朝日さんを中心として, 毎週木曜日に集って研修をはじめた。

 

 希望者が多く、場所がなくなり、銀座のキリスト教会を借りるに至つた。

 

 健聴者だけの集りから、ろうあ者も入て<る集りへと変つて行った。

 

  現在  第1、3土曜日  年後6時から,
  第4土曜日   テープルマナーの講習をしている。

 

 などろうあ者大会などを契機に各地域で手話を学ぶ人々の機会がつくられたり、諸外国の取り組みの教訓を引き継ぎ日本でも同様の手話を学ぶ条件を整えようとする動きが広まってきていることが解る。

 

京都の 手話通訳・障害者問題・障害児教育 の先駆者 第2回全国手話通訳者会議および通訳者研修会 1969年

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手話を知らない人も

     手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

京都の手話通訳・障害者問題

      障害児教育の先駆者

 

 第二回全国手話通訳者会議は、司会・まとめ役として当時京都ろう学校中学部の故村上忠正氏がその役を担った。

 

 京都ろう学校の村上忠正氏は、手話・ろうあ者問題に非常に精通していたばかりか、ろう学校授業拒否事件の時に問題解決の先頭に立ち、それ故、教職員内部で一番矢面に立たされ、攻撃された教師である。

 

 さらに全国に先駆けて障害者問題や障害児教育を創造した草分けとしても実践・理論的に非常に優れた能力を発揮した人である。

 

無断引用と寛容の背景

 

 同じ京都聾学校高等部の伊東雋祐氏のほうが今日では著名であるが、伊東雋祐氏はしばしば村上中正氏の実践・理論を村上中正氏の知り得ない他府県で無断でほとんどを引用して公表した。

 

 無断引用であったが故に伊東雋祐氏は村上中正氏の名前と引用であると記さなかったため、伊東雋祐氏の考えであるかのように全国的に理解されてきた。

 

歴史的訂正・修正を加えた著作集の編集

 

 村上中正氏はそのことに一定の道義的責任を伊東雋祐氏に指摘しつつもろうあ者問題・障害者問題・手話や手話通訳が広がることをねがって寛容的な立場を保っていた。

 

 後に伊東雋祐著作集を編集するにあたりすでに故人となっている村上中正氏の引用等の問題を伊東雋祐氏に指摘し、伊東雋祐氏も反省を籠めて充分了解の基に多くの著作の修正と訂正すべきところは訂正して伊東雋祐著作集を発行した。

 

 しかし、すでに故人となった人の多くの引用文献や引用根拠を充分掲載することが出来なかった。

 

 第二回全国手話通訳者会議の後に伊東雋祐氏が講演しているが、その内容も同様である。

 

 伊東雋祐氏も故人となってしまった現在、故人からの伝承を整理することはあまりにも膨大で、困難を極める。

 

 

手話通訳者 を積極的に養成し 組織し 育ててきたろうあ者・ろうあ協会 第2回全国手話通訳者会議および通訳者研修会 1969年

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手話を知らない人も

                     手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介

 

 1969(昭和44)年5月10日から11日まで、熊本県で第二回全国手話通訳者会議及び通訳者研修会が開催された。

 

 この第二回全国手話通訳者会議以降、手話通訳者会議は大きな変容を遂げて行くことになる。

 

 手話通訳者会議の主体確立の模索

 

 第一回手話通訳者会議が1968年に福島県で開催され翌年、熊本で第二回の会議が開かれる。

 

 会議の準備・整理・費用等がすべて全日本ろうあ連盟の負担であった。

 

 全日本ろうあ連盟がすべて負担するという現状に対して、手話通訳者の主体的な会議として開催すべきではないかという意見が、全日本ろうあ連盟・手話通訳者の中で出てきていた。

 

 だが参加者数を見ても参加者61人(第一回手話通訳者会議94人)。

 うち女性20人、男性61人、参加都道府県24都道府県。

 

と全国を網羅した参加者、人数となっていないため手話通訳者たちが単独で全国交流会や会議を開催することは困難であった。

 

 さらに開催県との距離、旅費等の問題等があった。だが、ろうあ者大会に参加するろうあ者のほうがあるかに負担が多かったことも考えなければならないだろう。

 

手話通訳者を養成・組織してきた

         ろうあ協会を忘れてはならない

 

 手話通訳者の全国的状況から考えて手話通訳者が全国会議を開催するだけの力量を持ち得ていなかったのがよく解る。

 

 その反面、ろうあ協会・全日本ろうあ連盟の努力によって全国的な手話通訳者の会議が開催されたことについて、ろうあ者の手話通訳への切実なねがいと期待がどれほど多かったのか想像に難くない。

 

 手話通訳者を積極的に養成し、組織し、育ててきたきっかけがろうあ協会・全日本ろうあ連盟であったことは、決して忘れてはならない。