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手話と手話通訳

京都の手話通訳者の取り組みと研究の中からの伝承と教訓をみなさまに提起します。戦前戦後の苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを決して忘れることはなく。

コミュニケーション方法に「レジスト」 自分たち同士のコミュニケーションを成立させたのが手話

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 1960年代後半から1970年代にかけて京都で研究された手話通訳の手練(スキル)の特徴は、

 

   それぞれの地域の暮らしに根ざしていた手話を学び 理解する

 

① どこまでもろうあ者が表現している手話や使われている手話で表現する。

 そのため日常的にさまざまな地域・場所で手話通訳者が学んだ手話や手話表現を交流し、手話通訳の検証を自由意見の保障のもとにすすめる。

 京都の北部から南部・他府県から来たろうあ者の暮らしの中で使われている手話表現を手話通訳者は、交流し、手話表現の背景や多義性を学びあった。

 例えば、京都では、一生懸命を馬の目につける「遮眼革・遮眼帯」から表現されるようになったとか、蚕の表現(口から人差し指と中指を伸ばし振るわせるなどなど)が場所によって違うし、それが養蚕と織りの盛んだった京都北部の加悦谷を表すなどなどである。

 ろうあ者の手話表現は、それぞれの地域の暮らしに根ざしていたし、手話通訳者はそのことを知らないと理解できないとされた。

 そのことからも、手話通訳者には一般教養が必要とされた。学校教育の国語が、という意味では決してなかった。

 

② ①と同様に手話表現における手話の配列・順序は、ろうあ者が表現している手話や使われている手話の配列・順序を継承し、そうできない場合などは、手話通訳者集団として検討し、ろうあ者・ろうあ協会と意見交流する。
 
      漢文の順序が手話表現の順序に対応していることも多い

 1960年代後半から1970年代かけて京都のろうあ者で高齢なろう学校教育(戦前)を受けた人々は、漢文で文字表現した。

 この漢文の順序が手話表現の順序に対応していることがしばしばあった。

 そればかりか、ろうあ者が表現する、手話の視覚的コミュニケーションの順序はその多くが音声言語の順序と異なっていた。

 

 例えば、手話表現では、肯定か、否定か、は先に表現されることが多く、聞こえる人の話は、話の最後に、肯定か、否定か、が表現されることが多くある。

 だから、手話通訳者は聞こえる人が話すときに、瞬時に、肯定か、否定か、を判断できるように努める能力を形成するなどなどのことがあった。

 また手話での会話では、文章のように順序性は求められず、簡略・省略・示唆などなどが、巧みに取り込まれてコミュニケーションが成立していた。

 

 このコミュニケーションは、ろうあ者に留まらず京都府下の少なくない地域でも自然に行われていた。

 

   お互いのコミュニケーションが成立すれば、事足りていた

 

 例えば、姓が名乗れるようになって、同一姓を名乗る地域が多くあったが、そこではお互いの姓を名乗ることなく名前や屋号やあだ名などなどお互いが通じ合う名前で呼び合っていた。

 また、あれ、それ、これや誰々のところなどで住所や場所を示していた。
 
 姓を名乗るように政府などから「標準」「基準」「標準語」が指示・強要されても人々の暮らしの中では、その必要もなく従来通りの自然なコミュニケーションがあった。

 

 ろうあ者も同様で、別に主語があろうと、なかろうと、接続詞があろうと、なかろうと、お互いのコミュニケーションが成立すれば、事足りていたのである。

 自分たち同士では、何らコミニケーションの不自由はなかったとも言える。

 

    コミュニケーション方法に「レジスト」
        自分たち同士のコミュニケーションを成立

 

 以降くり返すことになるが、京都ろう学校で戦前は手話による教育が行われ、それが口話教育に転換されて時期のろうあ者の聞き取りを行ったが、それでもろうあ者は教えられた手話のみでコミュニケーションするとか、教えられた口話だけでコミュニケーションするとか言うことはなかったのである。

 その時々の教育は、それぞれの生徒に大きな影響をあたえるが、それで「形に嵌め込まれる」ものではない。

 

 ろうあ者の話を聞いていても時には強要されたコミュニケーション方法に「レジスト」し、自分たち同士のコミュニケーションを成立させていた。

 

  教えられた手話とともにろうあ者は自らの「対面会話」として手話を取捨選択してきた

 

 このように述べると、手話は、明治時代に京都で手話法の教育が実施されたため京都のろうあ者は盲唖学校(ろうあ者がよく表現していた表記にし、歴史名称の変遷は省略する。)で教えられた手話を使い続けたと考えられがちである。

 しかし、盲唖学校で教えられた手話とともにろうあ者は自らの「対面会話」として手話を取捨選択してきたともいえる。

 

 なぜなら、戦前の盲唖学校で学んだろうあ者と多く手話を交えた交流をしたが、その多くが生徒同士で話し合うときに手話で話し合い、手話表現を交換したとろうあ者が証言している。

 事実、盲唖学校で教えられていた手話法を調べてみてもその大半が戦前のろうあ者が教えられたままの手話を使っていたとは思えない事があった。

 

    取捨選択され、ろうあ者の手話として生きてきた

 

 歴代の天皇を手話で表すことなど戦前の教育上教えられた手話表現を覚えているろうあ者はいたが、むしろ、ろうあ者同士の対面会話として手話が交流され、自分たちのコミュニケーシュンをすすめる中で、話しにくい、通じにくい、手指や手話の表現としてはしにくいものなどは自然に淘汰されたり、取捨選択され、ろうあ者の手話として生きてきたと証言された。

 

 そこには、押しつけも、強制も、マニュアルもないためさらに自然に・自由に手話はろうあ者の手話として創造し、発展させていったのである。

 このことの重要性について、強調しても強調しすぎることはない。

 

 ろうあ者の立場を尊重するというならば、これらのろうあ者の創造的領域をどこまでも大切にしなければならないのである。

 

 しかし、1970年代以降に手話が社会的理解を得てきた段階で、残念ながら以上のような創造領域は肯定されなかった。