(特別寄稿) 再録・編集 原爆を見た聞こえない人々から学ぶ
佐瀬駿介 全国手話通訳問題研究会長崎支部の機関紙に52回に連載させていただいた「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)はぜひ読んでほしい!!との願いを籠めて、再録・編集の要望に応えて。
8月9日
雲 浴びる で手話を表現しよると
“原爆”“放射能” 字は知っていますが、うちは読めん。
“8月9日、雲”
“8月9日 雲 浴びる”
で手話を表現しよると。
最近になって。“8月9日、雲”のことが詳しくわかった。
もう二度といやばい!!
苦しか思いは、もう好かん
後山都志子さんは、証言の最後にこのように話を締めくくる。
世界中の人々が知っている
「長崎に原爆が投下された」事実を
どのような時に知ったのか
1985年にまとめられたものである。
被爆から40年他が経過した時に後山さんがこのような手話で話を締めくくった意味は計り知れないほど重く哀しい。
「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)には、18人のろうあ者が実名で証言してくれている。
「長崎に原爆が投下された」という世界中の人々が知っている「事実」を18人の人々がどのような時に知ったのか。
それはなぜか。
その背景にはどうのようなその人の生活があったのか。
後山さんは、原爆投下という「事実」を原爆投下後40年目にして手話通訳者の人々と「共に行動し」「共に学ぶ」ことから「原爆投下という事実の本質」にアプローチし、さらにそのことの恐ろしさを表現している。
後山さんは、なぜ40年後まで「原爆投下」「被爆」ということの「意味」を知り得なかったのか。
8月9日の爆弾が
『原爆』だということを全く知りません
他のろうあ者は、このことに対して主に次のように証言している。
菊池さんは、「妻の妹が矢上に尋ねてきて(原子爆弾を使うという)ビラを見せてもらいました。」
山崎さんは、「ある日、友達と町に出たとき、写真の展示会で原爆の写真を見ました。その写真を見るまで、あの8月9日の爆弾が『原爆』だということを全く知りませんでした。」
佐々木さんは、「その爆弾が『原子爆弾』という珍しい名前だと新聞で見たのは十月頃でした。」
榎園和子さんは、「生前、父は 『原爆に遭って悪い空気を吸ったようだ』と話していました。」
小野村さんは、「『原爆』のことも『終戦』新聞で知った。」
西郷さんは、「落下傘式の原子爆弾が落ちたということは十の長崎新聞で知っていました。」
ろう学校での学習が十分保障されなかったこと
原爆投下・被爆ということの本質を知り得ないまま生き
生活に拭えない重い暗さを投影
このように原爆投下という事実を知ったろうあ者は、「原爆を見た聞こえない人々」(文理閣 075-351-7553)の証言をよく読むと、ろう学校を卒業し、何らかの意味合いで文字が読める、という点で共通項がある。
では、後山さんの場合はどうだったのだろうか。
彼女はろう学校に通ったけれど14歳頃の小学部6年の時は、空襲警報が多く
「何かやろうとすると警報。なんでも中途半端!!」
「勉強もほとんどなかった」
と原爆投下の年3月に小学部を卒業したことを明らかにしている。
後山さんは、ろう学校での学習が十分保障されなかったことが、その後、原爆投下・被爆ということの本質を知り得ないまま生きてきた彼女の生活に拭えない重い暗さを投影している。
聞こえないというハンディーに積み上げられて……。
たとえようもない重々しい恐怖どころか地獄絵をくぐり抜けてきたろうあ者に優しさと揺るぎない信頼を勝ち得ながら。
手話で聞き出し、手話で語り、手話で聞き、手話で確かめてきた記録。「原爆を見た聞こえない人々」)。
この本は、どんな条件下でも人間が手をつなぎ合い歩み、「事実」から目をそらすのではなく「事実」を見続け「未来を語る」ことが可能であることをもまた証明しているのである。
その到達点が、後山さんの証言の最後の締めくくりとして現されている。
被爆体験の記録ということに留まらず
「平和な未来図」を描き
提案している取り組み
それが解ると全通研長崎支部とろうあ者の取り組みは、被爆体験の記録ということに留まらず世界中の人々が愛してやむことのない「平和な未来図」を描き、提案している取り組みなのである。