手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
待ちわびているのか
待ちくたびれているのか
もう待てないのか が手話で
あごの下に手を添える。普通は、「待つ」と言う手話であるが、「待つ」「さびしい」「ひま」の三つに「訳」される。
表情が無表情だったら「待つ」という手話表現は、「待つ」だけで終わる。
だが、「待つ」は、愛しい人を「待つ」という表現も出来る。
待つと言うことはさまざまな場面とこころの揺れがある。
今はスマホで「待つ」ということはなくなったように見えるが。
足の位置や組み方や少し足を曲げて待つ、などによって、待ちわびているのか、待ちくたびれているのか、もう待てないのか、が手話表現出来る。
繊細な神経と感情が求められる
手話通訳者はそれを音声語で表現するのだから、繊細な神経と感情が求められるのである。
「待つ」と言いさえすれば、全身で表現しているろうあ者の手話を表現した、とは言えないだろう。
ここに、手話通訳者としての感性と教養が表れてくる。
手話は、手先の動きではない。
全身と感性と教養で表現するコミニケーションなのである。