手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
2011年の夏前。
京都北部の岩滝町にある与謝の海養護学校を訪ねた、
それから与謝の海養護学校の校長をしていた故青木先生の加悦町の家を訪ねた。
岩滝町と加悦谷町はなどは、今は与謝野町とひとつになっている。
戦争孤児を助ける取り組みと
京都の障害児教育をはじめた教師たち
車で走りながら、Iさんが通ったであろう旧道を見ていたがずいぶん距離がある。
ここを当時の自転車で走り続けたIさんの想いの強さを知ると共にあることに気がついた。
私がろうあ者の戦争体験などを記録をしているときに、あるろうあ者が戦争孤児となって京都駅で万引きなどをしていて飢えをしのいた。
いろいろと助けられたことがある、と話していたことでがあった。
その戦争孤児を集めて、戦後すぐ生活と学習を教えたのが京都師範の学生だった青木嗣夫先生たちの学生だった。
戦争孤児援護会という名で戦争孤児を助ける取り組みをした少なくない学生が、教師になると京都の障害児教育に取り組み初めたということだった。
もっと詳しく聞いておけば、という反省だけが残る。
手話を知らない人々にも
ろうあ者の人々の思いや生活を
手話の意味が後々の人々に
伝わらないのでは
もうひとつつけ加えておかなければならないのは、Iさんが手話で現した「加悦谷」=蚕という手話表現のことである。
ろうあ者の協力を得てのインタビューと文章による記録は、何度も行った。
なぜ文章による記録が必要か、映像に残してもろうあ者が語る手話の意味が後々の人々に伝わらないのではないか、という危惧感。
同時に手話を知らない人々にもろうあ者の人々の思いや生活を伝えたい、との気持ちがあったからである。
簡単にろうあ者の手話表現から
「見聞き」したものではない
今まで書いてきた文も簡単にろうあ者の手話表現から「見聞き」したものではない。
ひとつの手話表現の意味を知るために幾度も聞いたり、会話した結果、知り得たことでもある。
例えば、着物という手話表現でも数多くある。
着物の袖=大丸と表現された時代もあった。
売り子さんが着物を着ていたから、との説明を受けてその時代、時代の写真や本と照合したりして多くの時間もかかったし、ろうあ者の思い過ごしもあって、繰り返し聞きに行くという取り組みをした。
また来るな と約束して病気で倒れて
Iさんの話も結婚して、無一文からの京都での生活をはじめたというところまで記録され、また来るな、と約束して病気で倒れて長い闘病生活を余儀なくされた。
医師から手話通訳を禁じられたばかりか、身体全身が動かなくなって倒れる日々が続いてしまった。