手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
1969年9月8日。京都。京都府庁で働く人々へろうあ協会が心を込めて配ったビラは、わずか9日の間に読み書きも充分出来ないろうあ者も含めて連日深夜の論議から作成された。
そして1969年9月7日の深夜からガリ版刷りされ翌早朝の京都府庁でまかれたたビラ。
聞こえる人々に自分たちの思いを知らせる
このような表現でいいのか
みんなの思いが込められていた。
聞こえる人々に自分たちの思いを知らせること、このような表現でいいのか、いやこのような表現がいい、と繰り返し、繰り返し相談しながら「みんなのビラ」が作り上げらたれてきた。
読み書きをこのような中で獲得してきたろうあ者は少なくない。
文字は、自分たちの気持ちや要求を表現するのだと言ったことを知ったろうあ者の読み書きの獲得には目を見張るものがあった。
ろうあ者の伝達手段は
音声や文字だけではなく
唯一手話だけだと主張する人々
ろうあ者の血の滲む
伝達手段をゆがめている
ろうあは読み書きが出来ないとか、文字は書けないのだとか、ろうあ者の伝達手段は音声や文字だけではなく唯一手話だけだと主張する人々は、ろうあ者の血の滲む伝達手段のコミュニケーションを極めてゆがめて「理解せよと言いながら曲解」を広めていると言わざるを得ない。
文字の獲得と
同時に自分たちの思いを現す喜び
京都府庁で配布されたろうあ協会のビラを持ち帰り、「何度も、何度も」写して文字を覚えたろうあ者も少なくなかった。
文字の獲得と同時に自分たちの思いを現す喜びを獲得していった。
手話通訳やろうあ者福祉は京都だから出来たのだ、と他府県の人から断定的に言われることが多かった。また、現代の京都の人でもそう言い切る。
そこには、当時のろうあ者が次の世代やろうあ者だけのことではなく障害者全体のこと、全体のことをを考えもがき苦しんでいたのかは消去されている。
どれだけ勇気をふるって京都府庁前でビラをまいたか。
また会社を遅刻したことを理由に薄給から、それでもまだ賃金カットされた、大幅な収入減。それでも行動したろうあ者の気持ちを知る人は少ない。
私たちろうあ者を含めた障害者政策の推進は、全京都府職員の皆さんの理解と援助によってこそ、発展するものであることを痛感しております。京都府が、私たちの切実な要求に答え真の障害者施策を推進するために、みなさんの御理解とご支援を訴えます。
とみんなの考えがまとまったことは、それまでのろうあ者の苦悩からの輝きを観いいだした取り組みが結実された結果なのであるる。
このビラが、京都府全体に与えた影響は非常に大きかった。