communion of mind with mind
日本語対応手話とか、日本手話とかを主張する人に共通しているのは、日本語とは何か、日本手話とは何かの定義が極めてあいまいであり、自分で「定義」した考えて「違い」を強調したり、する自己完結型が多い。時には対峙する側に強要したりする場合もある。
すでに、「手話で表出することは、音声言語や文字と融合したものである」と述べてきたが、それは手話には文字や音声語もさまざまなコミュニケーション方法を内包して形成されてきたろうあ者の知恵が無尽蔵に内包しているからである。
手話は日本で暮らす人々の言葉である、日本語である。
即ち手話もかって日本語から除外されてきた歴史を訂正させて来たのである。
日本語対応手話とか、日本手話とかを主張する人は、苦渋以上の苦悩の中で産み出されてきた手話を充分理解しているとは思えない。
理解出来ないか、理解することすらしないのではないかと思われる。
日本国では、国際的に使われる「共通語」ではなく意図的人為的に造られた「標準語」などを強要してきた歴史がある。
少数民族の言語や各地域の言語は、全面否定して
「国の規範となる言語」
とし少なくない地域で暴力的に強要して明治20年代に「形式を統一」したものであることを忘れてはならないだろう。
日本手話は、日本語対応手話と文法が異なるとする意見などなども以上の「国の規範となる言語」を前提にしたものではないか。
各地で手話が異なり、意味合いが異なることを否定する少なくないひとびとは、「国の規範となる言語」の考えのように手話を「画一化」することを考え、「単一化」する考えではないだろうか。
各地で表現される手話が、異なっていることになぜ疑義を挟むのか。
ここには、明治政府によって決められた日本語なるものが「規範」の名のもとにそれまで育まれてきた日本語を画一統一化する考えはないだろうか。
日本手話とか、日本語対応手話とか、言う人々は、
極めて困難で持続的な取り組みが必要であった手話の「文字や音声語もさまざまなコミュニケーション方法を内包して形成されてきたろうあ者の知恵が無尽蔵に内包している」内容を把握したり、調べたり、研究してともにコミュニケーションの共有をしようとしないのではないか。
特定の手話を「標準」として、手話の違いはあっても「共通」するものを見出そうともしないでいるのではないか。
すでに、述べてきた原子爆弾を「落ちる・爆発・きのこ・もくもく」などで表すか、原子のというアメリカでつくられた「記号サイン」と「爆発」で表して事を済ましてよいのだろうか。
広島・長崎で直截原爆被害を受けた聞こえない人も聞こえる人も頭上で爆発したからこそ「もくもくとしたきのこ雲」とは表現しない。
この共通性を熟知するなら「原子爆弾」は、この手話だ、とひとつだけ、の表現で断定出来ないだろう。
手話にある「多様性を認めて」そこにある「共通性を見出す」ことを前提に手話も学ばれていかなければならないだろう。
「爆弾の手話はこれ‥‥‥」というひとつの手話を学ぶこともあるだろう。
教えることもあるだろう。
だが、そこに画一を持ち込んではいけない。
それは、手話を「文字や音声語もさまざまなコミュニケーション方法を内包して形成されてきたろうあ者の知恵が無尽蔵に内包している内容」を否定したり、一面化するからである。