手話 と 手話通訳

手話通訳の取り組みと研究からの伝承と教訓を提起。苦しい時代を生き抜いたろうあ者の人々から学んだことを忘れることなく。みなさんの投稿をぜひお寄せください。みなさんのご意見と投稿で『手話と手話通訳』がつくられてきています。過去と現在を考え、未来をともに語り合いましょう。 Let's talk together.

手話 の会話を見て頭上で原爆が炸裂しても生き残ったと告白

communion of mind with mind

 

  長崎県、1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、長崎市松山町171番地の上空約500mで投下された原子爆弾が爆発。

 原子爆弾が爆発した爆発点の瞬間温度は摂氏数百万度に達しといわれ、爆発から1万分の1秒後には、約30万度の火の球が生じたとも言われていて、火の球は、1秒後に最大となり、半径約240mまで膨らみ、爆心地の地表の温度は約3,000~4,000度に達したといわれている。

 

 が、その地点で、年老いた婦人が、若い頃、投下された地点で川で洗濯し、生き残ったと言う。
 

 信じがたい話だった。

 

 アヤキさんは、長崎に投下された原子爆弾のことを熟知していたが故に、目の前に寄ってきた年老いた婦人の話を知って唯々驚くばかり。その年老いた婦人を見続けるだけだった。

 

  「ようここに来ていただいた‥‥‥ここ、この真上で爆発したんです。その時、私はそこの川で洗濯していたんです。」

 

 ようやく、アヤキさんは、

 

「どこで洗濯をしていたの?」

 

とその老婦人に尋ねた。

 

 「あそこ、です。」

 

と指さされた場所は原爆投下記念碑から30mも離れていない地点だった。

 

 そこに居て「生き残れたはずが絶対ない」と思える地点だった。

 

 老婦人は、

 

「川で洗濯するときは、あそこ、にとてもとてもおおきな岩があり、その窪みに入って洗濯していたんです、いつも」

 

と言う。

 

 「小柄だったので、岩の窪みに入ってそこから流れる川の水を使って洗濯していたの」

 

とも言われる。

 

 だれもが生き残れるはずがないと思われる原爆投下地点の真下で川で洗濯した女性が助かった、生きていた、とは、とても信じられない話だった。

 

 自分だけが生き残ったことは、80余年の月日の中で「自分で封印」してきた。

 

 アヤキさんに「告白」したのは初めて。

 

 アヤキさんが手話で話している様子を見てそのことをすべて解ったから、話すようになった、と言うことを知るのに少なくない時間がかかった。

 

 が、アヤキさんの手話で話していることがすべて解った、と言われるのにはその場にいた三人とも大驚きだった。