自分の経験則に基づくだけの研究調査しない傾向の克服
誤解を恐れず敢えて言うなら手話や手話通訳を学び、研究する人々はこれらの手話の研究・検討をすることなく、立証や証明などのことも考えることなく自分の経験則に基づいてさまざまな場面で手話通訳について「自由」に話してきている。
時には、なんの根拠もなく初めて手話を学ぶ人々に教える。
やむを得ないことであるが、初めて手話を学び人々もそれを信じ込んでしまう傾向がある。
以下に述べることは、過去のことを現代と未来へ伝承しようとする提起でもある。
だが、それは学び合いの精神で今後を語りたいからである。
龍に耳がない、と思い込んでいた人々にある「思い込み」
少しばかり最近知ったことを明らかにしておきたい。
聾 の文字は、龍に耳がないから聞こえない人々のことを漢字であてはめたものであるととある講習会で講師が説明した。
それを学んだ人は、龍に耳がない、と思い込んでいたのであるが、これも奇妙なことである。
龍は架空の動物であるが、絵画や彫刻で現され龍を見れば一目瞭然である。
龍には耳がある。
龍に耳がないから=ろうという漢字を使っていると言った講師もそれを信じた人々も、もっと学んで欲しいと考える。
龍に耳とは、もともと聞こえないという意味ではなく、龍が空に舞い上がるときの噴煙になぞらえて、かすかに、ぼんやりとなどの意味合いから産まれている。
厳密には、聾は聞こえないと言うことではない。かすかに、ぼんやりと聞こえるという意味合いも含まれているのである。
これらのことは、手話通訳者が巾広い教養と研究心を持ち続けることの重大さを教えている。
物事の本質をとらえ的を射る手話を否定してはならない
もうひとつの例をあげておく。
新しい手話として、池と沼の「手話がつくられた」ときに、驚くべきことがあった。
池と沼の違いは、すでにろうあ者の中でひろく行き渡っていたからである。
片方の手をタテに丸めて片方の手のひらを裏返し、少し閉じながら丸めた手の周りに沿って回す。
これが池という表現であった。
では沼は、同じような動作であいながら「片方の手のひらを裏返し、少し閉じながら丸めた手」を「片方の手をタテに丸めたところに沿って周りをタテにに回す。」
池の深さと沼の深さを表現することで、沼と池の違いを「一動作」で表現されていたのである。
地域、地域によって池や沼の形態は違う。
そのため、片方の手をタテに丸めて、の丸め方で池や沼の形態を現したのである。
阿寒湖は、丸みを帯びて表現。琵琶湖は、琵琶を弾くしぐさ。
これらのことが、まったく考慮されず「新しい手話」の名の元にろうあ者の先人たちが創り上げて来た手話が簡単に反古にされている現状は憂いを越えている。
ろうあ者の人々は 最高レベルの手話表現で語ってくれている
ろうあ者の人々は、心の奥深くから自分が体験したこと、自分が見た情景をいかに臨場感を持ってどのように知らせるのか、を考えて、最高レベルの手話表現で語ってくれている手話。
そこには優しさに満ちた手話があるだけではなく、人間のコミュニケーションの「無限性」を教えてくれているのである。
私たち、手話を学び、手話通訳に携わってきたものはそのことを熟知し、手話や手話表現の持つ特性を充分踏まえて行かなければならなかった。
その点では、手話研究や手話通訳研究はあまりにも立ち遅れている。
以上のことを踏まえていただきたい。そして、以下の論述はすでに述べたことを前提にしていることを知っておいていただきたい。